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「犬」

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初めて先輩の家へ遊びに来ている。

先輩の部屋はどことなく無機質な感じがする。撃ちっぱなしのコンクリートの壁や、アルミニウムの家具や、モノクロで統一され、随分と物がなくて、ベッドとテレビ、机がぽつんと置いてあるだけの部屋は、生活感がなくて、俺の汚くゲームや脱いだ服、雑誌や教科書なんかが散らかった部屋とは大違いだ。これが理系と文系の違いってやつなんだろうか?
それとも社会人になって、一人暮らしを始めたら、俺もこんな風になれるんだろうか?

でも部屋はもうすこし色々と置きたい。これじゃなんだか刑務所みたいだ。





「おーい、コーヒーとオレンジジュースとお茶とコーラと水とビールと紅茶と牛乳、どれが良い?」
キッチンのある方から先輩の声が聞こえて、随分種類が豊富だな、と俺は苦笑する。

「じゃあ、牛乳ください」
「りょーかい」





先輩は俺の高校のバスケ部のOBだ。

もっとも、俺が17で先輩が26だから、直接の先輩だった訳じゃない。でも、先輩は、インターハイにも出場した黄金時代のメンバーの一人で、ポジションはセンター。仕事の帰りに時々部活を覗いて、色々と教えてくれるから、俺達一年から三年の先輩まで、みんながこの人を尊敬している。憧れている。
中でも俺はどうしてだか特別良くしてもらっていて、なにかと世話を焼いてくれるから、時々友達に羨ましがられる。
先輩は、不思議な雰囲気の人だった。何か、暗い井戸の底を覗きこんなような気にさせられた。だけどその井戸の底には何があるんだろうと更に覗き込んでみたくなる。不思議な魅力のある人だった。そんな先輩目当ての女子マネが水面下でどろどろとした争いを繰り広げたらしいっていうのは、友達から聞いたことだ。でも彼女がいた、とかそんな話は全くないらしい。バスケ一筋なんて、硬派で格好良い。男の俺から見ても、先輩はまさに「理想」って感じの男だった。





俺も先輩くらい身長が伸びたら良いのに。俺はバスケ部じゃ小さくて、なかなか試合にも出してもらえない。だから今日は、先輩が持っているというインターハイのDVDを見せてもらって色々と教えてもらう約束をしている。約束っていっても、今日の下校途中、たまたま会った先輩と話をしているうちにそういう事になったんだけど、まぁ、秘密の特訓ってやつだ。幸い今日は部活のない日だし、ちょっと位遅くなっても母さんも怒らないだろう。

よっしゃ、今日は先輩から色々学んで、俺もいつかスタメン入りだ!




「ほら、牛乳。で、これがDVD」
「ありがとうございます」

先輩から冷えた牛乳の入ったコップを受け取れば、先輩は目を細めて笑って、テレビのスイッチを入れた。

そして、大歓声とともに、「第XX回全国高校バスケットボール…」と安っぽいナレーションが入った。














DVDを見終わった俺は、興奮が止まらない。
すげー!やっぱ先輩ってすげー!!俺もこんな風になりたい!
そんな気持ちを熱く先輩に語れば、先輩はちょっと困った顔をして笑う。

「そんなんじゃない。なんでもできる訳じゃないよ。できなかった事だって沢山ある」
「へぇ、何ができなかったんですか?因数分解とか?あ、理系だからえーっと、古典とか?」

違うよ、と先輩は笑って、机の上に置いてあったタバコを銜え、火をつける。そんな仕草まで格好良い。

「俺さ、犬って上手に飼えなかったんだよな。」
「犬?」
「そう、犬」





犬を、上手に飼えなかったんだよな。仕事帰りに子犬見つけてさぁ、なんか可愛かったから連れて帰ったんだけどさ、餌やっても警戒してキャンキャン吼えるし、やらなかったらやらなかったでまた鳴き始めるだろ?俺も自分で連れてきたんだから、それなりに気に入ってたわけで、大切にしてやってたんだけどさぁ、なかなか俺に懐かなくて。ちょっと苛々して殴ったりして、そんなに驚くなよ。殴ったっていっても、ちょっと小突いたくらいさ。そんで、犬って糞するだろ?ションベンするだろ?あの世話が俺面倒でさ。トイレのしつけを何度も教えてやるのにすんげぇ嫌がってさ、仕方がないから犬用のおむつ買ってきて一日中付けてやったんだけど、それも嫌がるわけ。でも俺はそいつのことがすんげぇ好きだから愛玩して、躾もきっちりするんだけど、どうしても駄目だった。俺も社会人だから、仕事も遅くなるし、なかなか散歩もしてやれなくてさ、放置しておくと随分元気なくなるし。おもちゃ与えとけば一日鳴いて喜ぶんだけど、俺が相手するともう駄目。鳴き出すし、弱っていくし、あんまり可哀想だから別の奴に譲ってやったよ。うん、そうだな。俺も今でもちょっと後悔してる。可哀想なことしたな、って思ってる。でも俺って完璧主義だから、できない事ってもう一回ちゃんとやり直したくて。でも、なんだか次は上手に飼える気がするんだ。


今度はちゃんと、やさしく可愛がってやるつもりでいるんだ。







先輩はそう言って微笑んだ。
微笑んだ先輩の顔がどうしてだか歪んで見えて、瞼が重たくなって、体がずっしりと鉛の様になっていき、俺は、どうしたんだろう、の一言さえ言えずに、先輩の部屋のフローリングに倒れこむようにして横になった。
あれ、本当にどうしたんだろう?


せんぱい、と先輩を見上げれば、先輩は何か愛しいものを見るような目をしていた。
作品名:「犬」 作家名:山田