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サカナの一生

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この五百年。わたしはただ夜を食べ、日に食べられ、伸びたり、縮んだり、薄くなったり、濃くなったり。そして人になったり、猫になったり、ただ実体のない、しかし生命であった。ただサナダさまは、もういない。あの人はただの足軽として、どこだかのちいさな戦で死んだ。その後もまっすぐに消えてしまった。そして、残されたわたしは、ただサナダさまの事ばかりを想い、気化した。


今のわたしは、サカナだった。


鯉とか、鮒とか、金魚とか、そういう類の礼儀正しい魚ではない。ただの夜のサカナ。銀色の鱗は輝いて、世界の合間をちらつかせる。サナダさま、サナダさま、わたしはとうとうサカナになりました。畜生類でもありません。サカナです。夜の匂いをつぃっと泳ぎ、朝の光に吸い込まれ、そしてそのまま朝もやとなる。そういう類のなんでもないサカナです。誰の血にも肉にも骨にもなることのできない、役に立たないサカナです。しかし、思えばわたしが誰かの役に立ったことはありましたか?



わたしはなんにもしない娘だった。


それを旦那さまは望んでいた。わたしがなにもせず、ただ着飾り、にこにこと笑っている類の、そういう浮世離れした、なんにもできない娘であることを、ただ旦那さまは望んでいた。だから、わたしは、そういうなんにもできない娘であった。赤いべべを着せれば町一番の、珊瑚の簪を挿せば日の本一の、かわいいだけの、なんにもできない、なんにも知らない娘であった。そんなわたしが一体、今まで、何の役にたったのでしょう?


そもそもわたしは、旦那さまと、サナダさましか知りません。いえいえ、きっと、ほかの知り合いもいたのでしょう。だけど今のわたし、このサカナのわたしには、わたしの中にはお二人だけなのです。わたしが娘で死んだのか、それとも老女で死んだのか、それすらわたしは覚えていません。ですが、お二人が亡くなった時のことだけは、五百年経った今でも、サカナになった今でも、わたしはきっちりと覚えております。それだけは自信があります。


わたしが伸びたり、膨らんだり、縮んだり、見えなくなったり、薄くなったり、濃くなったり、切れてしまったり、交じり合ったり、そういう変化を続けた間、わたしの中でもお二人は、わたしと同じように変化しておりました。ですが旦那さま、どうかお許しくださいませ。わたしの中には、やはり、サナダさましかおりません。わたしがどんな姿になっているときだって、わたしの中にはサナダさまが、どっかりと腰をすえ、わたしが遠くに消えることを、沈むことを、浮かぶことを妨げて、どっかり重石になっているのです。とても、とても、いとおしい重石です。

サナダさま。

今のわたしには、あなたのお顔も、声も、もう何もわかりません。ただただその名前さえあれば、わたしはまだまだ生命である、と信じていられるのです。わたしは、生きています。この世に言霊があるように、あなたの名前を紡ぐたび、わたしはしっかり命なのです。






ふいっと子供が手を伸ばす。
赤いマフラーを巻いた、ちいさな少年。その子が手を伸ばした先、垣根の竹の上で、一匹の蛾が羽を休めていた。子供はその蛾を捉えようとして、その幼い手で握りつぶした。するとその子の手の中で、蛾はその鱗粉を撒き散らし、そして光を爆発させた。光だ、と思った瞬間世界は夜となり、垣根も空も地もすべて背後へ遠のき、そのまま子供の頭上に後から後から光と夜が注ぐ。子供が恐ろしさに目を閉じたとき、その闇の中ですら蛾の鱗粉が美しく光り、粉となる。そして子供は見た。その蛾の生涯を。そして、その蛾は五百年の命を閉じた。蛾は蛾であった。
作品名:サカナの一生 作家名:山田