おちる夜
とりとめのない事ばかりがぽつぽつと浮かんでは消えた。わたしは、なんども部屋を行き来して、冷蔵庫の開け閉めをして、爪を切って、金魚にエサをやって、それでもやっぱり落ち着かない。
ゆうくんが帰ってこない深夜一時。
次にわたしは、窓の開け閉めをして、ひんやりとした夜の先を睨む。
どこかに人影がいないか睨んでも、マンションの17階からじゃ、アリんこみたいな人影がぱらぱらと見えるだけで、顔の認識なんてできやしない。ゆうくんのいない部屋は、すかすかとして、使い慣れた家具ですら余所余所しい。所詮、この部屋の家具たちはみんな、ゆうくんの女たちなのだ。ゆうくんのいない今、わたしに媚を売る必要なんてないわけだ。むっと家具をひと睨みしてやったら、家具が目を逸らしたので、わたしはふん、と鼻で笑って、テレビをつけた。新人グラビアアイドルとかいう女の子たちがお笑い芸人と恋愛についてしゃべっていた。その透明な馴れ合いにうそっぽさと水っぽさ、それから部室の空気を感じて、テレビを消した。ぱっと落とされたように静かになった部屋は、ぼんやりと青く沈む夜に取り残されてしまった。明かりのスイッチの場所は、失念した。
たぶん、ゆうくんは恋人と一緒にいる。
真っ赤な金魚が、フリルのようなヒレをびらびらと揺らし、青く沈む水槽を泳いでいくのが、夢のようにキレイだった。
この金魚は、先月のとても寒い日に、ゆうくんが買ってきた。縁日の夜店みたいなビニール袋に、黒と赤の金魚がそれぞれ2匹も入れられていたけれど、みんな死んでしまい、最後には真っ赤で、一番ちいさな金魚だけが残った。わたしはこの金魚に「赤チン」と名づけているけれど、ゆうくんは「デメ」と呼んでいる。出目金じゃないのに、と言ったらゆうくんはにっこりと笑い、金魚にはデメっていうのがうちの習慣だよ、と言った。ゆうくんには、そういうちいさな習慣がたくさんあって面倒だ。どんどん仲間が死んでいく中で、この赤チンだけが生き残り、ただ広い水槽の中で右往左往する迷子のように、あるいは堂々と我が物顔の王様のように泳ぐ。
金魚なんてバケツとか瓶とかで適当に飼えるわよ、と言ったのに、ゆうくんは赤チンを買ってきた次の日に、熱帯魚用の五万円もする水槽と、ボンベ、砂利、水草、それにお城、そういうものを沢山揃えて買ってきて、リビングに置いた。だけど一週間たったら、すっかり飽きて、赤チンの餌やりも、水の交換も、全部わたしがやっている。もうゆうくんは、見向きもしない。
ゆうくんはいつもそうやって、唐突に何かを愛でて、贅沢をさせるくせに、全力では愛さない。
わたしがゆうくんに拾われたのは、深夜のカラオケボックスだ。
その夜、部活の女子部員ばかりで集まって、浮世の鬱憤を晴らすべく、ぎゃあぎゃあとはしゃいでいたら、補導されてしまい、そのときの補導員の一人がゆうくんだった。いかにも新入りって感じの短い前髪からのぞく、甘さの残るオデコが可愛い人だな、と思ったのは、よく覚えている。今のゆうくんは、前髪が伸びて、あの可愛いオデコはもう見えないし、どこか沈黙を連想させる瞳は子供のそれではない。。
ゆうくんは、大人だった。
生まれたときからの大人で、人間ではなかった。彼の小学校時代も、初恋も、初めてのセックスも、大学生活も、なにも見えては来ない。生まれたときから、ゆうくんは、ゆうくんという大人だったような気がする。そういう淡白で生命の薄い人だ。
夜がせまってくる。そう思ったのは、このマンションに来た時に初めて思った。
わたしの家は二階建ての一軒家だったし、もっと地方のベッドタウンにあったから、こんなにも濃厚に人間のにおいのする夜は知らなかった。虫が鳴いているわけでも、星が見えるわけでも、闇なわけでもない。ただ、夜だった。いくつもの群青色の層ができ、厚く重なっていく様子が、この部屋のベランダからビルの間切れ切れに見えていた。わたしは時々、夜が迫ってくる様子を目線で眺めた。夜の登場シーンをぼんやりと、だけど切実な気持ちで眺めていると、どうしてだか悲しくて堪らなくて、わたしは手すりに突っ伏してよく泣いた。
夜はいつだって一方的だ。
夜は生きていて、人間をくるんで、飲み込んで、そして白々しい朝に放り出す。そう思ったとき、自分はただの高校生ではない別の人間になっていて、もうあの場所へは帰れなくなったんだ、と悟った。あの夜、カラオケボックスに集まって、笑いながら他愛もない話をして、顧問や先輩の悪口を言っていた自分には、もう帰れない。
ゆうくんは何もしない。ただわたしを着飾って、眺めて、にっこりと笑って、夢のような話をするだけ。同じベッドで眠るとき、ゆうくんはお父さんのようにわたしの髪を触って、ぽつぽつと遠い国の話をして眠った。BGMはいつだって、アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』だ。
ゆうくんは、なんだって買い与えてくれたのに、家事も、セックスも、なにもさせようとはしなかった。それから、外出もさせなかった。わたしはただマンションにいて、着飾って、ゆうくんが話すことに笑っていればそれでよかった。だけどそっちの方がずっと苦しくて、さみしかった。
ゆうくんは、帰ってこない。
金魚の水槽から漏れる青い光が、沈んでいくような夜を青白く浮かび上がらせ、わたしの体の白さを病的にする。
赤い金魚が一匹、青い部屋で眠っている。