クロイ・ヒト
十月四日、火曜日。午前二時に、俺は待ち合わせ場所までたどり着いた。こんな時間では列車もタクシーも捕まらないので、仕方なく、買ったばかりの単車で来た。渋谷駅前に単車を停めて、交差点近くにある丸井本館内のマクドナルドでポテトとシェイクを買って、また外へ出た。
当たり前かもしれないが、人通りはほとんどない。前に一度ここへ来た時は、人の洪水としか形容できないほどの交通量で、圧倒されたものだが。この時間では、時折自家用車が走り去っていくばかりで、人の影など見当たらない。
「それもそうか」
呟いて、俺はシェイクをすする。イチゴの強すぎる甘みと、何やら隠し味に入れたらしい酸味が、奇妙に交じり合っている。美味い。
午前二時半、ぼんやり立っていた俺の肩を叩いて、森野が姿を現した。いつものように、夜でも構わずにサングラスをかけて、野暮ったい服装をしている。背中にカメラ等の機材を背負い、片手には衣装を詰めたリュックサックを持っている。もう片方の手には、いつの間にか俺から奪ったポテトを握り締めていた。
「森野、ようやく来たか。間に合うんだろうな」
「あったりまえだ」
胸を張って、森野は言う。
「じゃあ、塔呉ちゃん。駅内のトイレにでも行って、こん中の衣装に着替えてきて」
「へいへい」
俺は手渡されたリュックサックを肩に掛け、渋谷駅の方角へ歩く。仕事の速い森野のことだからそう心配はしていないが、今から照明などの配置をするというのだから、間に合うのか、少し不安だ。
トイレの個室内で着替えを済ませ、鏡でその全身像をチェックする。そこには、朝の三時近くに全身黒タイツを着用している、気味と趣味の悪い、何だかわからない人間が映っていた。
「うへぇ。黒タイツかよ」
着ておいてなんだが、やはりこの格好は、あまり見られたものではない。勿論、どういう服装で撮影するかということは打ち合わせの時に決めてあったが、出来るものならもう少し格好のつくものを着たかった。これでも、結構俺はもてるのだ。こんな格好をしているところを人に見られたら、と思うと、それだけで震えがくる。
「ま、一生着てなきゃいけないわけでもないし」
独り言をぶつぶつ呟きながら、俺は森野の待つ交差点まで戻った。森野は真剣にカメラをセットし、照明機材の角度を試していた。俺が近付くと、一枚の紙切れを渡してきた。
「はいこれ、今日の脚本、っていうか流れね。また今度、塔呉ちゃんが昼にここに来る映像も撮っとくつもりだけど、今日のところはこれだけ。台詞も何もないから」
「おう」
紙切れには、簡単な状況設定と、俺への行動指示が箇条書きでしたためられているだけだ。それにしても相変わらず、こいつの字は汚い。どうにかならないものか。
一応それに何度か目を通し、自分の役割を理解し、森野の仕事が終わるのを待つ。三時半を過ぎた頃に、森野は動きを止め、にんまりと笑った。
「さてさて。セット完了しましたよ。塔呉ちゃん、準備は?」
「万端」
「よし。それじゃあ、位置について」
俺は言われたとおり、森野が立つ位置とは逆の、交差点に面した歩道に立った。先ほどもらった紙切れには、森野のいる方向から俺が歩いてくる映像を、あとでちゃちな合成で組み合わせ、編集すると書かれていた。
朝の三時四十五分。少しだけ空が明るみ、交差点に靄が立つ。
「よーし、じゃあまずは軽くリハーサルしよ」
靄の向こう側から、森野の声が聞こえる。姿も、ぼやけてはいるがきちんと見えるし、照明機材が俺を照らしているのも、よく分かる。
「スリー、ツー、ワン……」
森野が、いつものようにそう声を掛ける。俺も、軽く深呼吸して、合図を待つ。
「スタート」
森野の声が響くと同時に、俺はゆっくり歩き出す。交差点の真ん中で、黒タイツを着た俺と、いつもどおりの服装の俺が、すれ違う映像になるはずだ。そのために、俺はきちんと秒数を計りながら、交差点を歩いた。十秒かかって、真ん中までたどり着けば良い。
1、2、3、4、5……。
6、7、まで数えた辺りで、俺はふと、前方から誰かが近付く気配を感じた。どうしたんだろう、撮影は一旦中止だろうか? 人が来てしまえば、急いで俺たちは隠れなければならない。――しかし、森野の声が聞こえない。撮影を中止するのなら、森野が一声「ストップ」と叫ぶ手はずになっている。わざわざ森野が、向こう側から近付いてくる必要はない。
8、9。
俺は仕方なく、黒タイツの格好のままで歩く。ああ、こんな姿を見られたら、それこそ「人間じゃない」何者かに間違われても、おかしくない。そうなったら、この撮影はご破算だ。
10。
俺は、交差点の真ん中にたどり着いた。紙切れにはそのまま森野のいる方向まで歩いて行くように書いてあったが、――俺は立ち止まった。
「…………」
前方から歩いてきた人影は、俺と寸分違わぬ格好をしていた。全身黒。……顔まで、黒。こいつ、徹底してやがる。一瞬そう思ったが、すぐに思い直した。――こいつは、違う。黒タイツを着ているんじゃ……。
言葉を失って立ちすくむ俺に、その人影はずんずんと近付いてくる。靄の向こう側から、森野の呑気な声が聞こえてくる……「塔呉ちゃん、どうした~?」。
しかし俺は、言葉を返すことができずに、ただその、全身真っ黒の人間の姿をしたそれを、見つめていた。それは、俺の立つ交差点の真ん中まで悠然とたどり着き、俺を見て、……笑った。
そして、奇妙な声で、言ったのだ。
「アナタモ?」