花少女
3
宮子が妹の病室まで出向いたと言う日から、幾日か経った。その間に、急速に空気は暖かくなり、寒風の代わりに、生暖かいという表現がぴたりと合うような風が、頬を撫でて行くようになった。もう手袋も帽子も、防寒具は必要がない。歩いているとアスファルトの地面から土筆がにょきっと突き出ているのを発見したりし、一人感慨にふけったりなどする。
桜の花も、町を彩っていた。冬の間中灰色の雲を絶えずその頭上に構えていた、小さく陰気な町が、淡い桃色の薄衣に覆われた。
私は妹よりも数日遅れて、春を実感した。
学校の生徒たちも、春になると何となく様子が変わるようだ。そわそわしているようで、その実何も考えていなかったりする。授業中、生徒の幾人かは窓の外を眺め、その日の献立について或いは弁当の中身について思いを巡らしている。その他の大勢はきちんとノートを取り、私の話に耳を傾けている。極少数の人間は授業そっちのけで睡眠に精を出しているが、これは恐らく親の内職の手伝いで遅くまで起きていた勤労者であろうから、極力気にしないようにしている。
この間から、九条円、あのお下げ髪の少女が、随分と私に話しかけてくるようになった。話題は授業内容か妹の容態についてであり、けして逸れる事はない。彼女はやはり、妹と特別親しくしていたようだ。あれから一度見舞いに行ったというが、妹には詳しく聞きそびれた。今更聞くのも変かと思うので、恐らくもう聞く事はないだろう。妹は、彼女が妹の分も授業ノートを書き写して私に預けてくることに感謝していた。それを伝えたところ、九条円は大真面目に、だって友達ですもの、当然です、と肯いた。そういう少女だ。
しかし気になるのは彼女ではなく、私が授業を担当する度に、私をじっと見つめているらしい少年だ。しかもその視線はあからさまなものではなく、私が背を向けると注がれるのである。名簿を確認したところ、彼の名は青島月路(あおしまつきじ)というらしい。何度か指名して反応を見てみたが、私に指名されたとて、彼は一向に驚いた様子を見せなかった。それどころか、何食わぬ顔ですらすらと正答を答えてのけた。
彼が私に向ける視線は確実だ。只その意味が分からない。授業について質問があるわけでもないようだし、私個人に特別思い入れがあるわけでもなさそうだ。その視線の中には、私に対する感情と言うものが見受けられないのである。
彼の温和な眼差しに捉えられているのは私ではない。彼は、私というものを通して他の何かを見つめているようである。言うなれば私は何かの投影機で、また同時にスクリーンでもあるらしい。彼はさしずめ映写技師であり、同時に観客でもあるのだ。
彼は、私に何を投影しているのだろう。聞いてみたい気もするが、彼とは、九条円とは違って、格別交流する機会もない。なのでそのまま、気になりながらも放っておくという形になっている。