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文脈に彼はいない

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爪を切り損ねた。
 そのことに気づいたのは、図書室で借りたハードカバーを開いてからだった。爪が長すぎてかえってページがめくりにくい。
 本当は昨日のうちに爪をきるはずだったのだ。わざわざ姉に借りまでしたのに、風呂にはいったらすっかり忘れてしまった。
 午後の美術室は静かだ。窓から入る風は柔らかで、薄黄のカーテンを揺らしている。油と絵の具とほかの何かが混じった鼻につく匂いが外に流れていく。少し離れた机にパレットと絵の具のついたままの筆がおいてある。部員の誰かが放り出していったのだろう。その隣には書きかけのキャンバスが年期の入ったイーゼルにそびえている。キャンバスは青一色に塗られていて、どんな絵になるのか、僕には判断がつかない。
 美術室のそこかしこには、それこそ流しの縁からゴミ箱のふたまで、絵の具がこびり付いている。見かけは散らかし放題にみえて、よくよく見ると整理されてまとめられているが、その実、内包する無秩序さが、やはり混沌とした空気を醸し出す。美術室というものが本来的に持っている無秩序さというものが。美術室には人知をこえたものがすんでいる、僕はそんな気がしてならない。
 僕が図書室で借りてきた本はドリッピングが印象的な装丁のものだった。女の子が水の中で幻想な光景を目にする。そして同じ経験をしている男の子と交流する話だ。ありがちなボーイ・ミーツ・ガール。
 明朝体を追っているうちに、ふと、指先に痛みを感じた。ページをめくろうとしたが上手くいかず、ひっかいているうちに爪の間に紙が刺さってしまったらしい。やはり爪を切った方がいい。
 はさみがどこかにあったはずと、雑多なものが刺さっているいくつかのペン立てを漁る。やや大振りのはさみを見つけて、左の親指の爪にあてる。指にそって、ゆっくり切る。刃が皮膚に触れたとき、違和感を感じたが気にせず切ってしまった。はさみを離すと、指先にべったりと緑色がついている。残りの指で反射的にはさみの裏側に触れる。何でもいいと適当に選び出したのが悪かったのか、それとも汚れがないことを確認せずに使ったのが悪かったのか、べちょっとした、冷たい感触が伝わる。慌ててふきとろうとして、ティッシュボックスを探るが、空だった。自分自身もティッシュペーパーを持ってないことを思い出して、思わず右手で汚れをこすってしまう。緑の絵の具が右指に移っていく。しまったと思ったのは爪の間に絵の具が入り込んでからだった。爪の間を見て、そして、すん、とにおいをかぐ。濃い油のにおい。そうしてやっと、しばらく前に、古い油絵の具のふたが開かずに、ビニール製のチューブの端をはさみで切ったのは自分だったということを思い出した。自分のずぼらぶりは重々承知しているつもりだが、せめて絵の具をふき取ってからしまうくらいの手間はかけられないものか。
 気をとりなおして、手を洗うために流しに向かう。蛇口をひねると、流水が鮮やかに染まった。結論から言うと絵の具は落ちなかった。石鹸でべたつきはとれたものの、指紋の間の色は落ちなかったし、爪の間にこびり付いた絵の具は楊枝かなにかでないと落とせそうになかった。僕は手から流れたビリジアンが流しに留まっていたコバルトブルーとレモンイエローを巻き込みながら錆びた排水口に流れていくのをぼうっと見ていた。
 ふと、がらっというドアの開く音がした。肩ほどの髪の毛を後ろでくくった少女が入ってくる。吉田さんだ。
「あれ。来てたんだ」
 うん、と上の空で返す。
「何もないからさあ、来ちゃった。今日は絵を描くの?」
「描かないよ。本読みに来ただけ……」
 立って流しを見ている僕のことを気にもせず、吉田さんは声をかける。ちら、と彼女の方を見ると椅子の足を片方あげて背もたれにもたれてゆらゆらと揺れながらペットボトルの紅茶を飲んでいる。
「あっそうだ。チョコレート食べる?」
 彼女は鞄の中から赤いパッケージの箱を取り出す。個包装されていないタイプのチョコレートだ。
「ごめん、手、汚れてるから……」
 僕が両手をを見せると、彼女は「絵の具遊びでもしたの?」と笑った。そして椅子からぽんと飛び降りてチョコレートの箱を持ってこちらに近づく。
「口開けて。放り込むから」
 言われるがままに口を開けると、そこに四角いチョコレートが放り込まれた。口の中に甘さが広がる。
 からからと少し控えめなドアを開く音がする。入り口から長身の男がこちらをのぞいている。高林だった。彼は僕らを見て顔をしかめた。
「なんだ、お前らか」
「なんだとはご挨拶だねぇ」
 彼女はあっけらかんと笑う。
「チョコいるー?」
 いらねえよ、と高林はぞんざいに言う。部活しないならもう帰れ、とも。
 高林は鞄をおくと、準備室に入っていった。ほどなくして彼は一番新しいイーゼルを抱えて戻ってきた。彼はしばらく準備室との往復を繰り返して油絵の道具一式を運び込んだ。彼は律儀に準備室でジャージに着替えその上にエプロンを着けたようだった。僕は美術室に放置されていた油絵は彼のものではないかと思っていたのだが、そう言えば真面目な彼はいつも道具を片づけている。高林は部屋の片隅に彼の牙城を作るとそこに腰を落ち着けた。
 彼の絵は丁寧に描かれた静物画だった。花瓶に生けられた白百合を中心にいくつかのモチーフが配されている。彼らしい絵だ。
 高林は黙々とキャンバスに色を乗せているが、機嫌が悪そうだ。僕はたいてい仏頂面の彼と顔をつきあわせることになるのだが、仲の良い友人にはふつうに笑ったり、喋ったりしている。僕が嫌われているという可能性はもうしばらく前から考えに入れていた。それは僕があまり真面目に部活をしていないせいかもしれないし、単にのんびりしていていい加減な僕の性格が気に入らないのかもしれない、あるいは。
 あるいは彼は吉田さんが好きなのかもしれない。僕はどうしてか彼女と話すことが多いものだから。
「……なんだっけ。みどり、みどり、みどりのゆび? みどりのゆびって何かあったよね」
 彼女は僕の指を見ながら、また椅子の上でゆらゆらし、紅茶を飲んでいる。
「……童話だ。確か、反戦の」
 高林が口を開いたことに僕は少しびっくりした。吉田さんと言えば、ふうん、と気のない返事である。僕はその童話を読んだことはなかった。誰かから聞いたことも、たぶんないと思う。
 そして、また、三人の間に沈黙が落ちる。僕は高林について、あれこれ推測を巡らすが、それらは基本的に僕にとってどうでもいい。その推測もぼんやりとしたものでしかない。僕はもしかしたら吉田さんが好きなのかもしれない。だけどよくわからない。わからない振り、をしている。わからないというのは僕にとって心地よかった。まるで母胎の羊水の中にいるかのように。目を閉じればなにもかもなくなってしまう、そんな不確かさに僕は、母にそうするように甘えていた。この安寧を捨てたら、もしかしたら答えはすぐそこにあるのかもしれない。だけどその答えが正しいとは限らない。そして、答えを出す、ということもまた。
 僕らは線で繋がっているわけではない。僕らは緩やかに隔絶されている。もしそれを繋ぐものがあるとしたら。
 わからない僕と、緩やかに芽生える何かをも。
作品名:文脈に彼はいない 作家名:坂井