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六本木抄

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小さな国のお話です。

 幼い男の子が一人おりました。男の子は親に捨てられ、ひもじい思いをしていました。
 季節は冬です。寒さと飢えで死にそうになっていた男の子を、一人の男が拾いました。

「お前は若様にそっくりだ。これからは若様のために生きるのだ」

 そうして男の子は若様の影武者となったのでした。

 若様の名前は和伸(カズノブ)といいました。影武者の名前は桜太(オウタ)といいました。二人は並ぶとそっくりで、母親でさえ見分けることが出来ませんでした。
 若様は乱暴で臣下に辛くあたりました。桜太は穏やかで誰にでも優しく接しました。
 皆は桜太を愛しました。殿も母親も桜太を実の子のように愛しました。

「和伸、あなたも桜太のようになりなさい」

 いつしか母親はそう言うようになりました。

「和伸、お前も桜太のように振舞うのだ」

 いつしか殿もそう言うようになりました。
 若様は唇をかみ締め、それを耐えました。兄弟のように育った桜太に、激しい憎しみと嫉妬を感じました。
 桜太はそんなことを知りません。いつも穏やかに、にこやかに過ごしていました。

 二人が元服をして、殿が跡継ぎを決めるときがきました。
 そんなことを決めずとも、跡継ぎは決まっています。桜太は拾い子。この国の殿になることは出来ません。
 ですが、殿は決めたのです。

「桜太を跡継ぎとする。この国に出来の悪い後継者などいらぬ。和伸、お前が影武者となるのだ」

 和伸は怒りで顔を赤く染めました。
 どうして自分が影武者とならねばならぬ。理不尽な思いが心を満たしました。
 桜太は驚きました。まさか自分が後継者となるとは、思ってもいなかったのです。

「殿様、私は影武者として生きていくものです。後継者となることは出来ません」

 桜太はそういいましたが、殿はそれを認めることはありませんでした。臣下たちも納得して決めたことだったのです。
 そうして桜太は後継者となるべく、臣下の娘を妻にしたのでした。

 影武者として生きていかなければならなくなった和伸は、いつか桜太に復讐することを心に決めました。
 強かに、従うフリをして好機をうかがっていました。
 桜太は気付いていました。和伸の憎しみに、怒りに。
 当然だと思いました。自分は拾われ子。それなのに実子の和伸を差し置いて、後継者になるという。和伸の怒りは当然なのです。
 だから桜太は待っていました。
 いつか、和伸が復讐に来たとき、静かにそれを受け入れると。
 心優しい妻も、桜太の思いに気付いていました。そしてそれをとても悲しく思いました。

「いいんだよ。私は十分に幸せだった。これ以上の幸福なんて考えたこともない。でもこの幸福は本当は和伸様のものなんだ。私のものではない」

 そう言って桜太は柔らかく笑うのでした。

 春でした。
 桜が満開に咲いていました。
 和伸は桜太に向けて刃を振るいました。
 桜太はそれをよけることなく、受け止めました。
 憎しみが桜太の中に流れ込んできます。
 和伸の目から涙がこぼれています。憎しみと悲しみなのでしょう。
 桜太はそっとその涙に触れました。

「申し訳ございません。ずっと傷付けていました。だから、和伸様これでいいのです…」

 だんだんと視界が霞んでゆきます。もう和伸の顔も見れません。
 心優しい妻が泣くだろうな、と桜太は考えました。
 それでも和伸の憎しみから逃げることは出来なかったのです。
 すべてを受け入れること。それが拾い、育ててくれた殿への忠誠心でした。
 和伸は息絶えた桜太を見下ろしました。
 逃げることなく死んだ桜太。
 桜太の態度に驚き、恐れました。
 自分は憎むことでしか桜太を見ていなかった。
 でも桜太はすべてを見ていた。知っていた。
 自分との違いに愕然としました。
 ああ、これでは桜太に適わない。
 流れる涙は悲しみのためか、悔しさのためか分かりませんでした。
 和伸は桜太を立派な桜の木の下に埋めました。
 振り返ると桜太の妻が立っていました。

「あの人は死んだのですか?」

 毅然とした声でした。何もかも分かっている声でした。

「和伸は死んだ。今日から俺が桜太となろう」

 桜太の妻が泣き崩れました。
 桜太のように振る舞い、生きる。
 和伸はそれを選びました。
 優しい桜太を殺した罰を背負って生きてゆこう。
 和伸は桜を見上げました。
 風が吹き、花びらが散りました。
 悲しい妻の泣き声がいつまでも響いていました。

 桜太となった和伸は臣下に辛くあたることはなくなりました。
 穏やかに、優しく振る舞いました。
 殿と母は桜太が死んだことを分かっていました。
 自分たちが育てた子供です。分からないはずはありません。
 はじめ、母は悲しみ戸惑いました。

「私が桜太を可愛がりすぎたのがいけないのです」

 そうして自分を責めました。
 愛しい子供に殺しをさせたのは自分。
 殿も自分を責めました。
 優しい桜太を死なせてしまったことを後悔しました。
 桜太は殿の子供でした。
 下女だった桜太の母は桜太を一人で育てていました。しかし病にかかり、死んでいったのです。殿はそれを知り、桜太を引き取ったのでした。
 ですから桜太にも権利はあったのでした。
 それを知ったら和伸はどう思うでしょうか。後悔するでしょうか。
 しかし殿はその事実を秘め続けると決めました。
 和伸は今、桜太として生きている。
 それは桜太を殺したことを後悔している証です。
 これ以上責めることは出来ません。
 殿は静かに桜を見上げました。
 影武者として生きた優しい子。
 すまない、と殿はつぶやきました。

「あの人が望んだことです。殿が謝ることではございません」

 そっと桜太の妻が現れて言いました。

「私でも止めることは出来ませんでしたから」

 そう言うと悲しそうに微笑みました。

「大丈夫です、きっとこれからもあの人はここから見守ってくれるでしょう」

 妻の言葉に殿は頷きました。
 美しい桜は身代わり桜と呼ばれ、長い間枯れることなく咲き続けたといいます。
作品名:六本木抄 作家名:和子