赤い花の願望
もしも名をきちんと呼ばなければならないとき、父は困ったように途惑うように笑いながら、猫を呼ぶように名前を呼んだ。猫、というよりは愛玩物に話しかけるのに等しい。男にとっての愛玩物は植物であったからきっとそれだ。
母は産後の容態が芳しくなく、やがて消えるように死んでしまったらしい。詩的な表現が好きな男は私にそう言った。
母はあかねという名だったらしいことを、私は見慣れた父と見知らぬ母の若い頃のアルバムをみて知った。
写真の裏には線の細い字で場所と、人物名が書かれていた。父の字だった。
某時、某所、あかねと。
写真の中の男は常のように笑っていた。母は清楚で可憐なお嬢さまという雰囲気の、美しい女だった。私の性格は父親に、顔立ちは母親に似ていたこともそれで知った。
名は、母の名を下敷きに付けられたらしい。母を忘れないように名付け、私に母の面影を探すようにそれを呼ぶ。
するとどうだろうか。私の名を呼ぶときのあの顔はもしかしたら罪悪感ではなかったのか。いまはもういない妻に対する罪悪感。過去の女への想いを切れない私への罪悪感。
あの男らしいと私は思った。
私は男の残した花に水をやる。それが私の仕事で、日課である。
男の埋まっているところには囲いをしている。他の草が花が生えないように毎日見ては、雑草を抜く。そこにはいずれ、別の花を植えるつもりだ。
いつかは棺が腐り、男の屍骸に土がかかるだろう。その頃には男の肉も腐敗しているだろうからいい塩梅に肥料になるはずだ。
私はふふと笑う。
私は男の育てた、庭園の草木の一部である。その草木が男に種を撒き、また新たに花を育てるのだ。
こんなにおかしいことはない。そう思う。
(花よ、草よ、木よ。美しく育て。生き生き育て。)
くすくすと私は笑う。念じながら水を撒く。願うのではなく、祈るのではなく、念じる。
おそらく男が水を撒くときも、そうしていたに違いない。私は笑う。男と同じように。父と同じように。
私はこの家と朽ちる。この男と朽ちる。この庭と朽ちる。
朽ちてゆくんだ。