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眠れぬ夜は羊を数えて

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 外に出ると窓から見ていた通りの叩きつけるような雨が降っていた。私は横目でチラリと先程まで座っていた席に呆然と立ち尽くす男の姿をみとめた。少し頭を下げて今にも叫びだしそうになる喜びを押さえるために、伏し目がちに雨がリバウンドするコンクリートを見つめながら早足でその場を後にした。そうしてそっと、呟くようにもう特別ではない男にさよならを言った。そうしながらも私の心は今からの無限に溢れる自由を得た喜びでいっぱいだった。

 「さよなら夏樹。愛せなくてごめんなさい」


   『眠れぬ夜は羊を数えて』 


 大雨警報が出されるような激しい雨。いつも雨は嫌いだった。セットした髪を乱し、服を濡らした上に異様な臭いをつけるから。第一雨が降ると靴が濡れる。車道からは泥水が撥ねる。空気は臭いし、道は混む。良いことなど一つもありはしない。しかし今日だけは違った。激しさを増し慌てふためく人々の中、私は傘を投げ捨ててこのまま全身雨に濡れて踊りだしたいような気分だった。夏樹に別れを告げた私は全てから解放されたように清々しい気分だった。


 「はぁ!?マジで別れたの?夏樹と」

 昼休みの教室。私はパンを片手に教室の窓枠に寄り掛かりながら友人麻衣のすっとんきょうな声に頷いた。

 「マジじゃなかったら言う訳ないし。てゆーか、ここまでもったのが奇跡」
 「何で?ふっちゃうとか勿体無い。夏樹優しいし楽しいし、可愛いし、結構狙ってる子多いんだよ?」

 訳が分からないという顔をしながら高いキンキン声で抗議するように喋る麻衣に噂好きの女達は聞き耳を立て、一瞬にしてピラニアのように群がってくる。いつもは私もその中の一人だったが、こうして見ると馬鹿みたいで呆れる。

 「重いの!冗談じゃなく」
 「そんなの言っちゃいけないよ。夏樹がそれだけ愛美の事好きだって証拠でしょ」
 「それが重いの!もう半端なく重いの!私はもっと軽い恋愛がしたい訳!あんなんじゃ窮屈ったらない!」

 私が散々そう言っても彼女達は夏樹に同情の意を示すばかりで私を責め立てる。私の味方は誰一人いないのか。皆心の底では夏樹がフリーになったことを喜んでいるくせに。

 私、長谷川愛美(ハセガワ・アイミ)と高村夏樹(タカムラ・ナツキ)が約半年の付き合いにピリオドを打ったのはつい先日のこと。別に夏樹が嫌いになったんじゃない。ただ、夏樹の重すぎる愛に恋人としてやっていけなくなった。

 夏樹はいつもいつでも、私を見てた。私が中心だった。困らせたくて言ったワガママもイライラからくる八つ当たりも嫌な顔ひとつせずに受け入れた。最初はそれが嬉しくて段々怖くなって、最後はうんざりした。イライラして二人でいることが耐えられなかった。だから「これからはお友達でいましょう」と、彼に告げた。それだけのことを何一つ知らないくせに大衆は大騒ぎ。確かに夏樹は親しみやすい人柄と少しだけ整った顔を持つこと以外にも一卵性双生児の双子だということで校内ではちょっとした有名人だ。しかしここまで知名度があるとは思ってもみなかった。

 「とにかく、夏樹とは別れてお友達になったの。もう恋人じゃないし関係ないし!」

 ザワザワと騒ぐ大衆に向って怒鳴るように言ってやった。「お友達」なんて言うほど簡単になれないのは知っている。現に夏樹は今でも、私をすごく好きだ。応えることの出来ない思いを秘かに感じながら、私はほんのり悦にさえ浸っていた。

 私と別れてフリーになった夏樹。しかし夏樹の心は今も尚、私から離れることが出来ない。夏樹は今日も、羊を数えることも出来ずに私を思って眠りにつく。



 妙にフワフワした気持ちで、気をつけなければ宙に浮いてしまいそうだった。独り身になった私は思う存分一人を満喫していた。夏樹を振ったという後ろめたささえ、今の私には絶好のスパイスだった。時折物好きな女達が秘かに後ろ指を指し私のことを非難したが、そんなことどうだって良かった。私は彼女たちが本当は夏樹を手放した私に対して深く感謝していることを知っていた。「私のことよりも早く夏樹を大げさに慰めに行かないとまた他の誰かに取られてしまうわよ」とそっと親切に教えてあげたい気にさえなった。

 それでも私はもう一つ大事なことを知っていた。いくら彼女達が着飾り、無い知恵を振り絞って考えた慰めの言葉をかけようとも、夏樹の心は未だに私に向いていること。
 何もかもが愉快だった。陰口を叩く女達に微笑んで、同情の意を表した。

 「おはよう」

 教室に入ってきた夏樹は明らかに沈んでいて、声をかけるのもためらう程だった。夏樹に向けられた幾つかの同情めいた視線を確認しながら素知らぬふりをして声をかけた。

 「ギリギリセーフ♪寝坊でもした?」
 「…あぁ、ちょっと」

 私と目を合わせた夏樹は一瞬フリーズして戸惑った表情をした。いつものように返事を返そうと努力する仕種が見て取れたが言うまでもなく失敗に終わった。伏し目がちになる表情がいつもとは正反対の暗さを思わせる。哀愁が漂う夏樹を遠くから見つめながら溜息をつく女達の敵意を剥き出しにした目とクラスの無言の好奇心の目が同時に突き刺さる。

 「今日は部活あるんでしょ?思いっきり泳いだら眠気スッキリするって」
 「ありがとう。大丈夫だから」

 感心など無いふりして会話に聞き耳を澄ます奴等が私を睨む。鈍感な夏樹はその様子に気付くことはない。私に、周りにばれまいと必死に平気なふりをしてみせてみせようとする。それはあまりに痛々しくて誰もが口を摘むいでしまう。

 「なら良かった♪」
 「ありがとな愛美」

 力なく微笑む夏樹からそっと目を反らす。夏樹を嫌いなわけじゃないし、恨みがあるははずもないけど…私のせいで弱りきった夏樹を見ているのは嫌じゃなかった。いつものように、人だかりの中心にいて明るく笑う彼とは別人のような夏樹の姿を。



 飽きない女達の非難と好奇心の視線を受けながら教室で昼食を取るのにうんざりして場所を移動することにした。一人でパンを片手にふらついたが適当な場所が見つからず立ち入り禁止の寂れた屋上に上がる。扉を開けると熱い太陽と気持ちの良い風が私の体を包んだ。


 「誰?」

 声がした方を見上げるとどうやら先客がいたらしく、男子生徒が弁当を広げてこちらを見ていた。

 「夏樹?」


 光が眩しくて顔がよく見えない。男子生徒の顔を確かめようと近づいていった私は思わず大きな声を上げてしまった。しかしそれは間違いだったと、彼の表情を見て間も無く分かった。一卵性双生児は顔ばかりか声も似ているとは面倒だ。

 「夏樹探しに来たの?ここにはいないけど」
 「声だけ聞いたから夏樹かと思った」

 夏樹と同じ顔が平然と冷たく私を見止めると、ニッと挑戦的な笑みを作った。顔や形がいくら一緒でも、二人は違う。夏樹は私にこんな顔を見せない。

 「…ああ、長谷川さんか」
 「お昼の間だけお邪魔して良い?」
 「いつもは一人でいたい時間だけど、良いよご自由に」 

 
作品名:眠れぬ夜は羊を数えて 作家名:日和