悪魔をあわれむ唄
「窓を閉めようか、ジャック?」
応えが返ることはないと知りつつ、わたしはたずねた。古い怪談や迷信のいまだ残る小さな田舎の港町だ。狂人の最期のヤマに立ち合わせたいのは医者ではなくて神父というのも、カソリック色の強いこの地域ではそう珍しいことではないのかもしれない。清潔なシーツに横たわる病人を見た。彼に悪魔が憑いてるだって、馬鹿馬鹿しい・・・・・何かの間違いだ・・・・・一聖職者たるこのわたしとて、けして悪魔の存在を信じていないわけじゃないが、彼に必要だったのは抑うつ剤とカウンセラで、悪魔祓いなんかじゃないだろう。しかしわたしは泣き腫らした目で教会の扉を叩いた細君の意を、わずかながらも汲んでやることにした。日々死に近づいてゆく夫の顔を見守り続けた新妻の心境は、いかばかりであっただろう・・・・・妻帯をゆるされない司祭の身の上ではあるが、大切な者を喪う悲しみは理解できると自負している。相手のほうが一足先に神の国へ召されるというだけのことよと分かってはいても、やはり別離というのは苦しいものだ。胸の上で組んだ彼の両手にロザリオを持たせ、聖別した水に布を浸して額をぬぐってやる。今は眼を見ひらいて天井を凝視し、時折なにごとかをぶつぶつと(人の・・・細君の名だろうか。同じことばを繰り返しているようだが、不明瞭で聞き取れない)呟いている彼だが、つぎ目を閉じれば最期だろう。階下では、ここ数日不眠不休で良人の看護にあたってきた、若き未亡人となる女が泣き疲れてやっと眠りについているはずだ。
サパーに供されたカルヴァドスが今さらながらに効いてきて、わたしは目をしばたたいた。今年のは上物だと言って、細君の父親に強引にすすめられたのだ。ちまたに流通するまがい物ではなく、大陸から取り寄せた本物のカルヴァドスだと。たしかに口に含んだ瞬間、ノルマンディの芳醇なリンゴの甘みと酸味がいっぱいに広がって、思いがけずわたしはそれを楽しみ、また堪能した。だが、わたしは普段アルコールの類はたしなまないのだ。婿殿が峠を迎える夜だと言うのにやけに陽気な(そう、それも仕方のないことだ。働き手になれぬ男などこの慎ましやかな漁村では婿としての価値など微塵もない。さっさと死んでもらってしまったほうが、娘御の経歴も傷つかず、都合がいいということだろう。わたしはやるせない思いにおそわれた)寡婦となる女の父君に相伴し、けっこうな量をきこしめしていた。死の床に伏すあわれな男の傍らで、わたしはしばし、うつらうつらとしたらしい。
気が付けば、さきほどまで窓を揺らしていたあの潮風は止んでいて、ただ音もなく次から次へと天から水がしたたり落ちていた。わたしは慌ててジャックの様子を確認し、その息がまだあるのをたしかめると、ふと窓を見て―――――驚愕した。あれは・・・・・ああ、手が・・・・・手が!そのかたちに夜の闇を切り取りでもしたかのように蒼ざめて白い手のひらが、窓ガラスにぺたりとへばりついていた。つめたい汗を背筋に感じ、わたしが一歩あとじさるのと、死の床の病人が“come in...”としゃがれた声で呟くのは同時であった。キィ、と軽く窓枠を軋ませて、悪魔は部屋のなかに入ってきた。
それはわたしには見向きもしなかった。
「ジャック、ぼくのかわいい人・・・」
ゆったりと緩慢な、優雅にさえ感ぜられる所作で部屋のあるじたる男の病床に歩み寄ると、それは甘い響きをともなって男の名を呼び、その額にくちづけを与えた。その光景は(おお、神よ!)あろうことか傷ついたキリストを抱く聖母マリアを想起させ、わたしはまるで雷に撃たれた人のようにおののいて、さらにあとじさり、元の椅子に深く身体を沈めることとなった。そして、腰が抜けたように動けなくなった。
「もうぼくを呼んではいけないと言ったでしょう」
慈愛に満ちた指先で男に触れ、囁く。忌まわしいことに、その声はおそろしく耳に心地よかった。
「おまえの命を奪うことになってしまうよ」
ジャックは熱っぽい声でかまわないと言った。奪ってくれ、おれのすべてを。愛している。狂おしいほど愛している。あなたにすべてを捧げたい、どうか受け取ってほしい。うわ言のように愛のことばを繰り返しながら、ジャックが悪魔の着衣に触れると、それはするすると溶けるように消えていった。そして悪魔の裸身があらわになった。白皙の肌はほのかに輝き、暗黒の闇に覆われた閨をあわい光でやさしく照らした。わたしは息をのんだ。悪魔の両肩には、まるで戒律をやぶった修道士が、みずからを罰するためにきびしく鞭打ったような、真っ赤なあざが無数に見られた。それは引きちぎられた天使の羽のあとにも見えた。恐れおおのき震えることも出来ないわたしの目前で、あわれな悪魔と子羊は、ごくささやかにベッドを揺らした。あきらかに悪魔はいけにえの命を惜しんでいて、彼のために祈りさえし、呪われた我が身を嘆き、途方に暮れた迷子の風情で恋人の抱擁を求めたが、それはもう既に命尽きたあとだった。みずからを呪う悪魔。それは神のしもべたるわたしにはかり知れない衝撃を与えた。うっすらと涙の光る金色の目がついにわたしをとらえても、わたしは身動きひとつできなかった。
その手が、わたしに伸ばされても。