感染
たった一言を残して、友人は消えた。
一昨日までは普通だった。久しぶりに会って、お喋りして、食事して。
働き始めてからは同じ会社でも部署が違えば中々会えずにいた分、お互いメールやブログで近況を流したりして。
仕事の愚痴や最近ハマっていること。読んだ雑誌や観た映画、気になる異性の話とか。本当にたわいのない、けれどとても平和でどこにでもある話。そんなことを教えてくれた彼女も、どこにでもいる平和で楽しそうな表情をしていた。だから。
想像もしていなかった。あの子が突然消えてしまうなんて。
「みんな、逃げて」
その言葉だけ書き付けて、彼女は消えた。
ブログに記されたこの言葉を、誰もが笑って気にとめることはなかった。何の冗談かと本気にしなかった。それは、私も同じで。
その日から彼女は居なくなった。
通じない携帯。
繋がらない電波。
一方通行で返ることのないメール。
職場にも実家にも彼女の行方を示すものはなく。
けれど、誰もが次第に不安に駆られ始めるようになった頃、ふらりと、突然消えた時と同じような唐突さで彼女は帰ってきた。
心配をして怒る私達に、彼女は笑った。消える前と少しも変わらない笑顔で。
でも、その少しも変わらない姿は、私が知っている彼女とはすべてが違っていた。
栗色の長い髪。
日に焼けて、少し荒れた肌。
弧を描く眦。
溢れる笑みを彩る赤い唇。
何から何まですべてが完璧に彼女を模倣している。そう感じるのは私だけで。
何故、誰も気付かないのか。
何故、私だけが気付いたのか。
そして、本物の彼女はどこへ行ったのか————。
その子が笑うたびに浮かび上がる違和感。
その子が口を開くたびに込み上げる嫌悪感。
目の前にいるのは、かつて私の友人だった『もの』でしかなかった。
偽物というのとも少し違う。外郭は彼女で間違いはない。それでも、その身体に棲んでいるのはまったくの別人としか思えなくて。
自分の直感が出した結論を、否定することができないまま。
ただ一つだけ、以前の彼女とは違っていたこと。
項にかかる小さな、赤い痣。
それだけがやけに眼に焼き付いている。
それから、自然と縁遠くなっていった私を薄情者だと思うだろうか。
今でもふと思うことがある。彼女はどこに行ってしまったのかと。
きっと、友人ではなくなった『彼女』は今も彼女の振りをして過ごしているのだろうか。
『彼女』が彼女を連れ去ったのだろうか。
最後に彼女が残した言葉は、何を示していたのか。
何もかも判らないことばかりだけれど、たった一つ、知っていることがある。
恐らく、二度と彼女に会うことはないだろうこと。
それを認めるには、沢山の勇気を必要としたけれど。
最近、疲れやすくなった気がする。
パソコンに向かっていると、視界がぶれて見えるようになった。
医者に聞くと、ただの眼精疲労だというけれど処方してもらった目薬はまったく効かない。
一昨日から、身体に痺れを感じるようになった。特に仕事中に多い。やはり一日中パソコンに向かっていることが原因なのだろうか。こまめに休憩を入れながら仕事をしている。気休めにしかなっていないかもしれなけれど。
そして昨日、自宅のパソコンが急にトラブった。
作業をしていたら、突然画面が真っ白に変わり触ってもいないのに勝手に赤い文字を打ち出し始める。高速ではじき出される文字は何語かも判らない言語で、いわゆるプログラミングに用いる言葉に似ている気がした。
驚きながらじっと見ていると、何故か無性に首が痒くなってくる。
しかし困った。これでは仕事ができない。納期も迫っているというのに。
手を出せないまま途方にくれていると、再び画面は大人しくなって、今度はブラックアウトした。
溜息を吐く。
気を取り直して強制終了、そして再起動。保存をかけてない分のデータは飛んだだろうけれど、これはもう仕方がない。データを相手にしていればこういうことはよくあること。まだ致命的な状況ではないだけマシというもの。今日の睡眠を諦めればことはすむのだから。
そして、今朝————。
鏡を見て驚いた。
私はこんな顔をしていただろうか……?
徹夜明けで酷い顔をしているという意味ではない。ただ、純粋な驚き。
「こんな顔」を私はしていただろうか。
夜通し掻き続けて赤くなり、薄い皮膚が破けて血が滲んだ首元に散らばる赤い痣。
この痣を、どこかで見たような気がする。すぐには思い出せないけれど。
鏡の中の自分が笑う。
驚いた。私は笑ってはいない。笑えという命令は出してない。
そっと笑みを浮かべる口元に手を触れる。
それは、鏡の通りに綻んだ唇の感触が。
「あと、もう少し」
鏡に映る自分が喋る。
誰の声だろう。
誰が話したのか。
何がもう少しなのか、どういう意味なのかまったく判らない。
私の意図しないことを私の身体が勝手に紡ぎ出す。
意識はある。これは私だ。視線を流せば自分の手足が見える。
そう、これは私の身体。
だけど、鏡の向こうには私の姿をした別の何かがこちらを見ていた。
ああ、なんだか混乱してきた。目眩もする。
自分が自分ではないように感じるなんて!
「みんな、逃げて」
消えてしまった友人をまた思い出した。
職場を退職した彼女の仕事を自分が引き継いだ。さっきまでその仕上げをしていたから思い出したのだろうか。
さっきより、赤い痣が濃くなった気がする。
掻きすぎただろうか。爛れたように被れてしまっている。薬で収まればいいけれど……。
そっと宥めるように首元に掌を当てる。
そうすると、再び鏡の中の私が笑いながらこう言った。
『お前も、もうすぐ』
逃げて、と、彼女が残した意味は今も判らない。