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蜻蛉

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 その声は天井に吸収されて行く、天井はタロウを憎んでいる。彼に刃向かっている。良雄はそう思った。そしてその瞬間彼は決意を固めた。
「ぼくは家に帰るんだ、家に帰るんだ」 
 良雄はその家を飛び出した。しがみつくタロウを振り解き、運動靴をはくと、庭に駆け出した。
 庭を駆け抜けて、長屋門をくぐって、そのまま道なりに切通しを駆け抜けた。良雄は何かから逃げているみたいな気分になった。それはタロウなんかじゃない、もっと大きなものだ。しかし逃げ切れるだろう、あの家の天井が見守っていてくれる。良雄が考えることができたのはそれだけだった。ただ闇雲に足の向くまま走り続けた。
 息がきれはじめるほどに駆けて、養豚場の真木の生け垣がみえはじめたところでようやく安心して息をついた。豚の悲鳴のような鳴き声と堆肥の匂いの他は、何も生き物の気配を感じることはなかった。もはやここまではタロウも追ってこれない、なぜかそういう気がした。
 良雄は辺りを見回した。太陽は西に傾きかけ、オレンジ色の血で空を染めていた。彼は周りの風景を見渡してはじめて、ここが彼の伯母さんの家の近くであることを知った。ちょうど彼の家族がここに来るときに止めた彼の家の白い軽自動車も見える。彼はもはや孤独ではない、ようやく本当の人間に会える。彼は豚の悲鳴を聞きながら伯母さんの家に近づいていった。
 彼は自分の家の軽乗用車の横をすり抜けると門扉を開けた。庭には人影はなく、彼の家の者も戻ってきてはいなかった。彼は誰かが来るのを待つつもりで縁側に腰掛けて、庭越しに見える黒い森の影を眺めていた。吸い込まれるようなその森の下草の陰の色が、少し紫がかって見えた。
 軽い疲れから彼は靴を脱いで、縁側に横になった。天井裏に一匹の蜻蛉が止まっていた。良雄はそれに構う気もなく目を瞑ろうとした。
「ここに居たのか。ちょっと探したんだぜ、まったく手間を取らせるね、君は」 
 良雄は驚いて起き上がろうとした、しかし身体が言うことを聞かなかった。
 縁側の側、立っていたのはタロウだった。草履を履いていないのはたぶん彼をすぐに追いかけてきたからだろう、肩で息をしながら冷たい眼で良雄を見つめていた。
 良雄は首を振った。タロウの眼が普通でないのはすぐに判った。その眼は良雄を見てはいなかった。タロウはおびえていた。そして彼は何かたくらんでいた。良雄は震えながら伸びてくるタロウの手を跳ね除けると、タロウを突き飛ばして走り出した。
「待てよ、待ってくれよ」 
 良雄は何が起きても走り続ける気でいた。タロウの哀願する声が聞こえるが、そんなものはもうどうでもよかった。半開きの門扉を勢いよく押し開け、剥き出しの肘が真木の枝に傷つくのも気にせず、砂利道の石ころを踏みしだいて彼は走った。
 道の両脇、杉林の暗がりで蟋蟀が鳴いていた。後ろを振り返ると、必死の形相でタロウが追ってきていた。僕は喰われるのだろうか、突然そんな気がした。なぜか分からないけれどタロウが僕を喰おうとしているんだという確信だけが蟋蟀の鳴き声のように良雄の身体の中で長く響き渡っていた。
 道は寺の正面、左右に分かれていた。良雄は躊躇わずに国道の方へ足を向けた。どちらかと言えば国道の方に続く道の方が、人通りも多い。良雄は急な坂道を這うようにして登り始めた。
 急に視界が開けた。そして同時に良雄の足が止まった。一本道に立ちふさがるあれは、一体なんだろう。良雄は目を凝らしてその巨大な生き物を眺めた。彼の目はまず、その巨体の上に突き立った頭に行った、大きな目玉に行った。ぼろぼろの布を腰に巻き付け、空を突き破るようなその背丈、毛むくじゃらでぶっとい手足、顔面から突き出た巨大な鼻。鼻の下には口髭が生え、その下に広がる大口から漏れる唸り声に良雄は思わず道端の木の影に隠れた。巨人はゆっくりとこちらに近づいてくる。良雄は我にかえってもと来た道を走り出した。坂を降りてきてもとのT字路に戻ったとき、そこには顔全体で恐怖を現しているタロウがいた。タロウの目には良雄の後ろを走る巨人があった。
「おっ、鬼」 
 タロウがそう叫んだとき、鬼は突然飛び上がって良雄を軽く飛び越してタロウの前に立った。
「オマエハモハヤヨウズミダ」 
 それは右手を伸ばすとタロウの頭を掴みあげた。タロウは必死になって手足を振り回してそれに抵抗するが、最初から勝負はついていた。巨人はもう一方の手でタロウの肩の辺りを押さえると、一息にタロウの首を引き抜いた。そして肩の辺りから吹き上げる血で喉を潤したあと、巨人はタロウの頭を口に入れた。小さな悲鳴のような音を立てながら、タロウの頭は砕けて消えた。
 良雄は耐え切れずに目を瞑った。目を瞑っていても巨人がタロウを引き裂いては噛み砕く音は彼の耳の中に長く跡を引いた。
 しばらくして、タロウを食べ尽くしたのか辺りは急に静かになった。良雄は恐る恐る目を開いた。巨人のいないことを確認すると、彼はゆっくりと巨人がタロウを喰った場所に出ていった。木屑が幾らか散らばっているだけで、血も肉片も巨人の涎も落ちてはいなかった。良雄は少し不思議に思いながらも祖母のいた家に向かって歩き出した。
 急な坂を登り終えて祖母の家の前の道にでたとき、数台のトラックが彼の視界を遮った。トラックの荷台には乗せきれないほどの木屑を積んでいた。
 門を入ると溢れた木屑が、庭中に敷き詰められ、祖母の家はもう大黒柱とおびただしい瓦の破片の他には何も残してはいなかった。辺りは埃を抑えるために撒かれた水があちこちで溜まって、それが夕陽に染まってさながら血だまりの様に見えた。
 親戚中の大人達がその後片付けの様子を見ていた。彼の家族もその中に混じって運ばれていく家の残骸を見送っていた。
「おお、良雄。何処行ってたんだ。せっかくさっきパワーショベルが、家壊してるところだったのに、惜しかったな」 
 呆然と家の前に立つ良雄を見つけた彼の父親は何もなかったかのように良雄に言った。
 良雄は崩れた家の破片を一切れ、トラックの荷台から引き抜くとそのままポケットにしまい込んだ。


作品名:蜻蛉 作家名:橋本 直