赤い罰
磁器のようにつるりとした光沢を帯び、美しいラインが目を引く白い女性の体。無機物だと分かっていても混乱と興奮とで頭がくらくらする。
どうやら働くのは意識だけのようで、手足はもとより瞼すら動かせない。開きっぱなしの瞳が伝えてくる視覚情報によれば、僕は殺風景な白い部屋にいた。人の気配は感じられない。
ここはどこだろうか。僕はいつからここにいるのだろう。いつまでここにいるのだろう。僕は自分の記憶が消えてしまっていることに気づいた。
そもそもどうして僕はマネキンになってしまったのだろうか。かろうじて分かるのは、僕の意識が男であることぐらいだ。
「ネエドウシ○イッショニ×■※◇クレ△□ッタノ?」
唐突な女の声。どうにか音声は識別できたものの、その内容は不明瞭だった。聞き返そうとするが声帯は動かない。
「ネエドウシテイッショニ×■※デクレナカッタノ?」
女の声は繰り返すが、マネキンの耳ゆえか肝心な部分が聞き取れない。声の響きから察するに、どうやら彼女は何かを咎めているようだ。
「ねえ、どうして一緒に死んでくれなかったの?」
はっきりと声が聞こえた瞬間、目の前に大きく見開かれた二つの眼球が迫っていた。咄嗟に後ずさろうとするも、身体は動かない。瞳を閉じることすらできない。爛々と輝く双眸が生気のない僕の目を射抜いている。
……!
何かが這入ってくる。痛覚はないが、異物がプラスティック製の皮膚を犯して這入ってくる感覚に襲われていた。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いきもちわるいキモチワルイ――
「ほぉら、見ぃつけた」
彼女は僕の体内から取り出したものを掲げ、ニィと唇の端を吊り上げてみせた。透明な匣の中には熟れたトマトが入っている。
「一緒に死んでくれなかったあなたは、醜く枯れてゆくがいい。桜のようにはらはらと散り逝くなんて許さない。薔薇のように紫陽花のように向日葵のように萎びて枯れていくのがお似合い。頭を垂れて赦しを乞え乞え」
彼女は匣をくるくると弄び、白い床に叩きつけた。それは僕の心臓だ。割れてしまう。潰れてしまう。壊れてしまう。
彼女は甲高く嗤ったかと思うと、履いていた赤い靴のヒールでそれを踏みつぶした。匣が砕け、トマトが四散する。命を結ぶことのない種が靴にべっとりと付着した。
さらに彼女はその靴で僕の身体を蹴り倒した。ヒールがプラスティック製の臍を抉る。
「さあ早く乞いなさい」
目の前に迫る棘。彼女は眼球ごと脳を踏み抜こうとしているのだ。僕は一体彼女に何をしたというのだろう。そもそも彼女は――
……!
雷鳴が夢を引き裂いた。僕は跳ね起きる。午前2時53分。内容は覚えていないが、久々にひどい夢を見た気がする。
不在着信を知らせるランプが明滅する携帯を開くとメッセージが入っていた。非通知ではあったが、妙な胸騒ぎに襲われて再生ボタンを押す。
〈お久しぶりね〉
流れてきた声は、数年前に別れた彼女のものだった。それを認識した途端、僕の脳内に先ほどの悪夢が鮮明に甦ってきた。あの女は彼女だったのだ。
「まだ生きていたとは思わなかったよ」
無理心中を迫る彼女を拒んだ翌る朝、彼女は姿を消した。それを境に、僕はあらゆる記憶媒体に残る彼女を1から0へ変換したのだった。
〈連れて行くにはどいつもこいつも物足りなかったのよ……あなたもね〉
憐れみを含んだ声に興を削がれた。結局彼女はそういう遊びが好きなのだ。幾度となく自殺未遂を繰り返した挙げ句に、死を選べないまま生きてきた女だった。もはや真に受ける方が莫迦莫迦しい。
「生憎と僕は寝直したいんだが」
〈だから――独りで逝くわ〉
「ああ、好きにするといい。これで失礼するよ」
噛み合わない会話に徒労を覚え、僕は携帯を投げ出した。女はまだ何か云っていたが、今となっては時効となった嘘に付き合う気はない。寝汗を流そうと浴室へ向かう。
そこで僕は絶句した。白い浴槽の底には赤いハイヒール。まだ生々しいトマトの果汁に濡れ、種をこびりつかせた鋭角が墓標となって僕を責め立てていた。