町内会附浄化役
小さな公園には人影がなかった。近くのマンションからなにか香ばしい匂いが漂ってくる。色付きはじめたかえでの木がベンチの両脇に植わっていて、斎月はそれを見ていると少し落ち着いてきた。
さっきから二人の間には会話がない。御幣島の神もまるで置き物かのようにみじろぎもしない。
でも、これは自分から持ちかけたことだから、自分から話を切り出さなきゃならない。斎月はそう思った。
「怜子ちゃん、私は正直言って、あの時、あなたから逃げた。そして今でも逃げ続けてる。でも、それじゃいけないって、やっとわかったんだ」
斎月が話しはじめても、怜子はうつむいて斎月の方を見ないようにしていた。怜子を取り巻く弥無は少し不穏な様子を見せ始めるが、斎月は話をやめようとはしなかった。
「自分の汚さと向き合いたくなかった。だから、『汚い自分』の記憶をずっと閉ざしたままだった。だけどね、それじゃあ、私はずっと前に進めない。私は怜子ちゃんにあやまらなきゃならない。私は……」
言いづらくなって斎月は言葉に詰まる。だけど、もう続けるしかない。伝えたい思いは伝えなければ伝わらないから。
「私は怜子ちゃんのお兄ちゃんが強盗をした後、怜子ちゃんから逃げた。口もきかなかった。怜子ちゃんは関係ないのに! 私はそうすることで周りから自分を守ったの」
「もういいわ!」
怜子は叫ぶように言った。彼女の周りの弥無は渦を巻いて、その重さに斎月は引きずられそうになる。
「お願い、聞いて怜子ちゃん! 私はあなたともう一度仲良くなりたい!」
「そんなのはただのエゴよ!」
怜子は立ち上がった。
「結局今も昔もあんたは変わらないのよ! 自分が大事なだけ。私と仲良くなれば自分が気持ちいいだけじゃない! 汚い自分と向き合える、きれいな自分が欲しいだけでしょう?」
怜子の父は死んだ。
彼が死んだときのことを、斎月はよく覚えている。彼は本庄川で溺れた女の子を助けて、死んだ。当時、怜子の父は浄化役で、女の子を助けた時も、穢れた弥無を祓おうとしていたのだそうだ。町中が彼の噂で持ちきりだった。
「三枝さんは立派な人だ」「今回は本当に不幸なことで」「なにか困ったことがあったら力になりますよ」
町の人びとの言葉を怜子は今でもよく覚えている。みんなお父さんを褒めてくれて、みんなお父さんを惜しんでくれた。お葬式が終わって学校に行った時もみんなとてもやさしかった。そう、斎月もとても気を使ってくれた。父はヒーローで、怜子は悲劇のヒロインだった。父が死んだことはとても悲しい。だけど、みんなそのことを分かってくれる。分かち合ってくれる。それはとてもうれしいこと。
父が死んで、母は仕事をはじめた。といってもそういい収入でもなく、怜子は同じ町内で引っ越しをした。生活はよくはならない。町の人たちは、普通に生きていく。父が死んだときに力になると言ってくれた人たちは何もしてくれない。そんなことを言ったことすら忘れているのだろう。
町の人たちは、驚くほどのスピードで父のことを忘れていく。口端にものぼらない。怜子の家は逼迫していった。
四年前の八月十八日、怜子の兄は、特に何も言わず家を出た。そろそろ夏休みの読書感想文に取りかからなければならないと思っていた怜子は、朝からそわそわと動きまわる兄がうっとうしくて、彼が出ていくまで図書館から借りてきた本から目をあげなかった。その時彼の顔を見ていたら怜子はなにか気づけただろうか?
その後、怜子の人生には多くのことが降りかかってきた。父のことは簡単に忘れた人たちは、兄が犯した罪を絶対に忘れない。そう、それはずっと、ずっと怜子に付いてまわる。怜子の家は違う街へ引っ越した。でも、それも結局意味のないことだ。それは、ずっと怜子に付いてまわるから。そして、その街に怜子の父を知る人間はいない。
だから怜子は誓った。私も彼らのことを忘れない。彼らが私にしたことを、そしてしてくれなかったことを。
「全てを忘れてやり直すことなんかできないのよ」
違う街で暮らしてみても、噂はついてまわり、怜子の母はこの街に帰りたがった。どのみち苦しむのは同じなら、この街に帰ってもいいと怜子も思った。
「都合のいいことばかり言わないで!」
でも違った。変わってしまった風景、人びと、それはもう取り戻せないもの。その苦しみは何倍にもなる。
だから関わらないほうがいいのだ。
「あんたは私の人生にはもう必要ないのよ! もうほうっておいて!」
投げつけられた言葉は、ずっしりと斎月の心にのしかかった。斎月は言葉を無くして立ち尽くしていた。