おきたばかり
そう言ってあの人はよくわたしの髪を指に絡ませ、すい、とすくいあげてくれた。
あの人といるわたしは、親鳥があたえる餌を、口を開き待つ雛のように、あの人が教えること全てを必死で飲み込み、趣味を持たぬわたしには懸命に消化していった。はやくあの人のような大人になりたかった。
部屋はつくりたい色が決まらない油絵のパレットのように、脱ぎ捨てられた衣服が散らばり重なりあう。わたしもまたそのぬけがらの一つとして、紙のカップのアイスクリームをもったまま、膝をたて床に座り込んでいた。
窓にはまばらに小さな蛾たちと、一匹のヤモリの白い腹と吸盤のような四肢が張り付いている。ヤモリはほんの少し手足を這わせたあと動きをぴたりととめ、長い舌を伸ばし蛾を捕らえた。他の蛾は仲間が食われたことに関心が無く、なおも呼吸するように腹をふるわせ、じっと窓にはりついている。締め切った窓からガラス一枚をとおし、夜のひややかさは静かに忍び込み、何も纏わぬつま先を冷たくしていった。
夕方、街ですれ違ったあの人の隣に知らない女がいたのは、目に見える形での終わり、あの人はとっくにわたしへの興味を失っていた。
お互いの背に血がにじむほど抱きしめあえたら、昨日までそんな妄想であれほど胸を熱くし、自分の激しさを胸の奥にうずめてきたのに、終わってしまえば、もうあの人の誕生日も髪の色も思い出すことが出来ない、ただ今までが遠くへ流れていくのだ。涙は手のひらの温度でゆるくなったアイスクリームに落ち、柔らかな雪原にとけていく。ふちから薄い木のスプーンをつきたてすくいあげ、くちづけるように含んだ。この涙は別れの悲しみではなく、あんなに愛していた人のことを、もうどうでもいいと思う自分への驚きだった。恋の終わりとあの人はわたしに感傷すら残さなかった、わたしは恋に恋していたのだ。
甘い脂肪が薄く口の中いっぱいにとけ、やがて唾液と混じりあい、じんわりと胸に沈んでいった。これからどうすればいいんだろう。