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マスターのとある昼下がり

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外ではビュービューと風が吹き、まだ昼過ぎだというのに空はねずみ色であった。
商店街のアーケード。その真ん中辺りにある喫茶店「マタヨシ」で、一人の中年男性が、ココアを飲んでいる。甘く暖かい、ココア。それが男の胃袋を癒してくれる。

「マスター……。このココア、美味しいねえ。なんていうか、田舎でばあちゃんが出してくれたココアに似てるなあ」

男はマスターに賛辞を送る。その位、マスターのココアは美味だ。

「そうかい……。いや、嬉しいねえ。腕によりをかけたココアなんだ」

頭に白いタオルで包んだマスターはそう返す。歯が白く、神々しい。

「疲れたときはココアを飲め。甘さが現実を一時忘れさせてくれる」

歯を光らせながら、浅黒い皺だらけの顔で笑みを作り、口を開く。

マスターのエプロンは永きに亘り使われたのか、ところどころ黒い染みが付いている。いったい、いつからこの喫茶店は存在するのか。

「そうだね。甘いものはいいね。私達は現実という苦い苦い闇の中で生きているんだ。甘さは、苦さを忘れさせてくれる」

男はカップを口に運ぶ。
運んだときだった。

「おい、野浅。ここにいたのか」

店に入ってきた柄の悪そうな金髪の青年が、男に声をかける。

「……」

野浅は沈黙したままだ。もっとも、顔は愕然とした表情に染まっているのだが。

「来てもらうぜ」

歩み寄ってきた金髪は、中年の腕を掴む。店外へ引きずり出そうとしているのだ。

「おい」

「……なんだよ」

金髪が声に応ずる。呼びかけたのは、マスター。

「ウチの客に何をする。どういう了見だ」

「……オッサンには関係ねえだろ。すっこんでろ」

「そういうわけには行かん。ウチに入った時点で皆客だ。客を護る義務が俺にはある」

「い、いいんだよ。マスター」
野浅と呼ばれた男が口を挟む。

「これは私達の問題だ。マスターには関係ない」

「アンタはまだココアを余してる。全部飲んでからにしろ」

「それからじゃ遅いんだよ」

と苛立ちながら金髪。

「俺はアンタに用があるんじゃない。このオッサンに用があるんだ」

「……注文は?」

金髪は意表を付かれ呆けた顔をする。

「はあ?」

「『注文は?』と聞いているんだ」

「俺はオッサンを連れに来ただけで……」

「言ったはずだ」

マスターは憮然とした、硬い表情で言う。

「ウチに入った時点で皆客だ。もう一回聞くぜ。……注文は?」

金髪がたじろぐ。たじろぐけれども。

「んなもんねえよ!俺はアンタの客じゃない!」

「ほう……。客じゃないのか……。ならば……、ウチから出て行ってもらおうか」

「な……?」

またもや呆けた金髪に、マスターが問う。毅然とした、凛々しい表情で。

「出て行け」

正気の沙汰ではない。このジイさんは狂ってる。金髪の脳裏にその言葉のみ焼きつく。
伏し目がちだったマスターの目は、まるで獲物を狙う鷹のように鋭く、子供を喪った母親の目のように悲しみに満ちていた。
出て行ってたまるかと、なけなしのプライドが負けを認めたくないのだろう。金髪は言い返した。

「だから、俺はこのオッサンに用があるんであってジイさんには……」

とその時。

金髪の頬を何かが掠めた。
金髪が振り返ると、店の地味な茶色の壁に包丁が突き刺さっている。

「出て行け!」

マスターが一喝する。

「助けてくれ!」

プライドなどどうでもいい。金髪は戦略的撤退を決め込み、店からすたこらと逃げ出した。

「ま、マスター……、あ、ありがとう……」

「なに、気にすんな。ウチはお客様第一だからな。ここにいる内は、現実を忘れていい。だが、外へ出れば、真っ暗闇がアンタらを襲う。それに立ち向かうってのが、生きていくことなのさ」

伏し目がちな目に笑みを湛え、マスターは言う。

「ここは、そんな闇に立ち向かう戦士達の止まり木だ。ココアにはそれだけの力がある。俺が生きる限りは、な」

「マスター……。そうか……」

野浅は思う。このマスターは、本当にココアに情熱を注ぐ、戦士なのだ。

「本当にありがとう。ココアのおかわりをくれませんか?」

「ああ。いいぜ。……そうだ。この試作品の『味醂ココア』はどうだい?」

「『味醂ココア』?いただくよ」

マスターはその言葉を聞くと、カップを差し出した。
カップに入った味醂ココアの匂いは甘く、飲欲をそそる。野浅はこのココアを心から飲みたいと感じた。

「いただきます」

野浅が味醂ココアを一口飲むと、いっぺんに意識が消えた。というか、記憶が途絶えた。

「おおおお!?ど、どうした!お客さんが突然倒れちまった!オレンジココアのときと一緒だ……!きゅ、救急車だ!救急車ァ!!!」

いつの間にか、外は雲ひとつ無い快晴に変わっていた。