マスターのとある昼下がり
商店街のアーケード。その真ん中辺りにある喫茶店「マタヨシ」で、一人の中年男性が、ココアを飲んでいる。甘く暖かい、ココア。それが男の胃袋を癒してくれる。
「マスター……。このココア、美味しいねえ。なんていうか、田舎でばあちゃんが出してくれたココアに似てるなあ」
男はマスターに賛辞を送る。その位、マスターのココアは美味だ。
「そうかい……。いや、嬉しいねえ。腕によりをかけたココアなんだ」
頭に白いタオルで包んだマスターはそう返す。歯が白く、神々しい。
「疲れたときはココアを飲め。甘さが現実を一時忘れさせてくれる」
歯を光らせながら、浅黒い皺だらけの顔で笑みを作り、口を開く。
マスターのエプロンは永きに亘り使われたのか、ところどころ黒い染みが付いている。いったい、いつからこの喫茶店は存在するのか。
「そうだね。甘いものはいいね。私達は現実という苦い苦い闇の中で生きているんだ。甘さは、苦さを忘れさせてくれる」
男はカップを口に運ぶ。
運んだときだった。
「おい、野浅。ここにいたのか」
店に入ってきた柄の悪そうな金髪の青年が、男に声をかける。
「……」
野浅は沈黙したままだ。もっとも、顔は愕然とした表情に染まっているのだが。
「来てもらうぜ」
歩み寄ってきた金髪は、中年の腕を掴む。店外へ引きずり出そうとしているのだ。
「おい」
「……なんだよ」
金髪が声に応ずる。呼びかけたのは、マスター。
「ウチの客に何をする。どういう了見だ」
「……オッサンには関係ねえだろ。すっこんでろ」
「そういうわけには行かん。ウチに入った時点で皆客だ。客を護る義務が俺にはある」
「い、いいんだよ。マスター」
野浅と呼ばれた男が口を挟む。
「これは私達の問題だ。マスターには関係ない」
「アンタはまだココアを余してる。全部飲んでからにしろ」
「それからじゃ遅いんだよ」
と苛立ちながら金髪。
「俺はアンタに用があるんじゃない。このオッサンに用があるんだ」
「……注文は?」
金髪は意表を付かれ呆けた顔をする。
「はあ?」
「『注文は?』と聞いているんだ」
「俺はオッサンを連れに来ただけで……」
「言ったはずだ」
マスターは憮然とした、硬い表情で言う。
「ウチに入った時点で皆客だ。もう一回聞くぜ。……注文は?」
金髪がたじろぐ。たじろぐけれども。
「んなもんねえよ!俺はアンタの客じゃない!」
「ほう……。客じゃないのか……。ならば……、ウチから出て行ってもらおうか」
「な……?」
またもや呆けた金髪に、マスターが問う。毅然とした、凛々しい表情で。
「出て行け」
正気の沙汰ではない。このジイさんは狂ってる。金髪の脳裏にその言葉のみ焼きつく。
伏し目がちだったマスターの目は、まるで獲物を狙う鷹のように鋭く、子供を喪った母親の目のように悲しみに満ちていた。
出て行ってたまるかと、なけなしのプライドが負けを認めたくないのだろう。金髪は言い返した。
「だから、俺はこのオッサンに用があるんであってジイさんには……」
とその時。
金髪の頬を何かが掠めた。
金髪が振り返ると、店の地味な茶色の壁に包丁が突き刺さっている。
「出て行け!」
マスターが一喝する。
「助けてくれ!」
プライドなどどうでもいい。金髪は戦略的撤退を決め込み、店からすたこらと逃げ出した。
「ま、マスター……、あ、ありがとう……」
「なに、気にすんな。ウチはお客様第一だからな。ここにいる内は、現実を忘れていい。だが、外へ出れば、真っ暗闇がアンタらを襲う。それに立ち向かうってのが、生きていくことなのさ」
伏し目がちな目に笑みを湛え、マスターは言う。
「ここは、そんな闇に立ち向かう戦士達の止まり木だ。ココアにはそれだけの力がある。俺が生きる限りは、な」
「マスター……。そうか……」
野浅は思う。このマスターは、本当にココアに情熱を注ぐ、戦士なのだ。
「本当にありがとう。ココアのおかわりをくれませんか?」
「ああ。いいぜ。……そうだ。この試作品の『味醂ココア』はどうだい?」
「『味醂ココア』?いただくよ」
マスターはその言葉を聞くと、カップを差し出した。
カップに入った味醂ココアの匂いは甘く、飲欲をそそる。野浅はこのココアを心から飲みたいと感じた。
「いただきます」
野浅が味醂ココアを一口飲むと、いっぺんに意識が消えた。というか、記憶が途絶えた。
「おおおお!?ど、どうした!お客さんが突然倒れちまった!オレンジココアのときと一緒だ……!きゅ、救急車だ!救急車ァ!!!」
いつの間にか、外は雲ひとつ無い快晴に変わっていた。
作品名:マスターのとある昼下がり 作家名:кёку