ある雨の日に
雨が降る。春先だ。仕方ない。恵みの雨だ。雨に罪はない。雨がなければ私たちは死んでしまうんだし。うん。でも,限度がないかと思うのだが。
霧のような水滴は,いつしか重みを増し街へとしみ落ちていく。空は既に黒い。
傘を差していないため,視界を遮るものはない。歩くたびに靴がグジャグジャというのが,ハンバーグの作ってるときの音のようだ,とどうでもいいことが頭に浮かぶ。空と同じ色に染まったジーンズが張り付いて気持ち悪い。
コンビニの赤い光が目に付いたが,ぐっしょりと濡れた体では傘を買う気にもならない。
髪も顔も余すところなく濡れていて,いっそ絞れるんじゃないだろうか。徐々に体温が下がっているのは気のせいじゃないだろう。
ツイテナイ。
本当に今日はついていない。
日ごろの栄養不足と睡眠不足,ついでにバイト先の人手不足のおかげで,授業には遅れるし。そのせいで教授に目をつけられ,呼び出され。お小言を拝聴していればお昼ご飯,食べ損なうし。移動手段の自転車は壊れるし。それでも必死にバイトへ行けば,誰かの不始末の責任を追及されるし。帰りは自転車使えないから歩きで。しかも雨で寒いし。
ああ,嫌だ。
もう,真夜中といっていい時間。この雨の中歩道を歩いている人間なんていやしない。
オレンジと黄色のカラフルな歩道は,宵闇に濁った色になり,街路樹の黒い葉は雨に打たれて細かくゆれている。ベージュとブラウンでまとめられたマンションからは,いかにも暖かな光が窓とカーテンの隙間からあふれている。
カラカラと間抜けな音をたてる自転車を押しながら,溜息が一つ。上着のポケットを探り携帯を取り出すが,フラップをあけても反応がない。どうやら水分を吸いすぎてご臨終したようだ。
ああ,本当にゴシュウショウサマだわ,私。
この運のなさは何だろう。
不幸なまでに運がない。思えば,今まで自分に運が向いたことがあったろうか。小中高と担任とは折り合いが悪いし,部活にも恵まれない。大学に来るまで友人もできなかった。
悪いことは考え始めると止まらない。春先の妙な寒さに加え,不快指数が上がっていく。
早く帰ろう。
ホットミルクでも飲んであったまりたい。部屋はすぐそこだ。
マンションに着くと,いつものように郵便物をチェックする。ダイレクトメールやチラシしか入ってないはずのポストから,はみ出るように大き目の茶封筒が突っ込まれている。ダイアル式の扉を開け,取り出してみれば,宛名も差出人も私の名前が書いてあった。明らかに母の字だ。―わけがわからない。
とりあえず,手紙が濡れないように小学生の挙手の状態で階段を上り部屋へと戻る。鍵を開け,扉を閉めるその手でまた鍵を閉める。
外気と変わらない部屋は風がない分,外よりマシのような気がする。
ぽたぽたと雫をたらしながら,1DKの置くに進み,壁を探り電気を付ける。バスタオルをクローゼットから出す間に,二、三度瞬いて大儀そうに明りが灯る。むかつくほどに人工的に真っ白な光が,部屋を煌々と照らした。
床に放ってある部屋着に着替えながら髪をガシガシと拭いていく。濡れた服はそのまま洗濯機の中へと投げ込み,台所の棚からマグカップを取り出す。冷蔵庫を開いて昨日賞味期限だった牛乳を全部入れた。
ちょっとくらい賞味期限切れでも死にはしないだろう。
レンジで温まったミルクを持ってベッドに腰掛ける。一口飲んで,テーブルに置いたナゾな封筒を手に取った。まじまじと検分するが,当然何もわからない。
とりあえず開けるか。
何かメールでできないような重要な報告があるのかもしれない。手でびりびりと不恰好に破いた封筒の中には,さらに封筒が。―ますますわけがわからない。
アースカラーの大人びた封筒には子供っぽい字で私の名前が書いてあった。今度は私の字だ。セロハンテープで止められた口を開けば,中から八つ折りにされたルーズリーフが出てきた。
二十の自分へ
笑え。
つらくても,苦しくても笑え。
何があっても笑っていろ。
それがお前の義務だ。
笑え。
幸せになるのが,幸せでいるのがお前の義務だ。
泣くな。笑え。幸せでいろ。
五年後の私のために,お前は幸せでいなきゃいけないんだ。 十五の私
青臭い手紙だった。
すっかり忘れていた。
こんな手紙を書いたことなど。
こんな生意気なことを考えていたことも。
自分がこんなバカで世間知らずで,それでも一所懸命生きていて。
未来に必死に希望を託していた十五才だったことも。
過去の自分からのメッセージ。―涙が止まらなかった。
翌日。
空はきれいに晴れた。
乾いて復活した携帯には大量のメールと着信が着ていた。午前中には姉からの花束と実家からの荷物がきた。午後からの講義は休講で,サークルに行けばあちこちからおめでとうといわれた。夜には悪友共が家に来て季節はずれの鍋をし,ミスマッチなケーキのローソクを吹き消した。
今日は私の誕生日だった。
拝啓
十五の私へ
今,すっごく幸せ。
敬具
二十の私より
追伸
二十五の私へ
幸せでいよう。