千の夜 一の夢
1.夢
アデルは夢を見ていると思った。
飽きずに、何度同じ夢を繰り返し見ているのだろうか。
思わず苦笑してしまった。結末は決して変わらないのに。
夢の中のアデルは六歳の少女で、二歳になる弟のアベルに大好きな母を独占されて我慢ならなかった。
妹か弟のどちらが生まれても、絶対かわいがってあげようと思った。
いいお姉さんになろうと思ってた。
なのに。
生まれたばかりのアベルは、しわしわのくちゃくちゃで、ちっとも可愛くなかった。
寝ているか、泣き叫ぶかのどちらかしかしない。
しばらく経ち、ようやく人間らしい顔つきになってきたアベルをかわいいと思ったが、弟の半端じゃない泣き声はアデルをイライラさせた。
苛立ちが募ったアデルは、アベルの頭をペチリと叩いた。軽く、ほんの軽く叩いただだけなのに、弟は火がついたようにわっと泣き叫ぶ。
彼の泣き声を聞きつけた侍女たちが、泣き止むようにあやす。アデルがアベルをいじめていると知った母は「お姉さんなのだから、可愛がってあげて」と怒った。
可愛がってあげようと思ったけれど、泣いてばっかりのアベルにどう接すればいいのかさっぱりわからなかった。
つまらない。
皆、アベル、アベルって大事にする。
誰もあたくしを見てくれない。
アベルなんていなければいいのに。
アベルがいなければ、お母様も、あたくしだけのものなのに。
周りの人たちが言っていたことをつなぎ合わせ、アデルは考えた。
どうやら、弟はこの国の次の王様になるので、特別らしい。
あたくしは女王様になれないの? と父に尋ねると、「継承権は男子優先なんだ」と難しい言葉をつかった。
とにかく、あたくしはアベルより大事じゃないみたい。
それだけはわかった。
だから、皆、あたくしには構ってくれない。
アデルの頬にはポロポロと涙が零れ落ちた。はしたないとはわかっていたけれども、大きな声で泣いた。
狼が月に向かって吼えるように泣き続けた。
誰かに気付いてもらいたかった。いらない子じゃない。必要な子なんだといってもらいたかった。
毎夜、獣のように泣き叫ぶアデルに、父は頭を悩ませていた。だが、しばらくして、ある考えが思い浮かんだ。
父に呼ばれたアデルが部屋に入ると、母も同席していた。
父はめったにない笑顔で、今度、婚約者が海を越えてやってくると教えてくれた。
婚約者の意味が分からなくて母に尋ねると、大きくなった時にあなたと結婚する相手よと優しい声で応えてくれた。
婚約者の彼は、海を越えた大陸にある古い王国の第二王子で、ノエルという。アデルよりも十歳年上の彼は、優しいお兄さんにしか見えなかった。
まるで夜空を照らす月のような淡い金色の髪は、まっすぐ肩まで伸びている。
異国の香りが漂う灰色がかった碧い瞳は神秘的で、不躾ながらもまじまじと見入ってしまう。
乳白色の肌に、ぽってりとした唇は艶やかな薄紅色をしていた。
銀と赤の糸を使って刺繍が施された濃い緑色の上着に、上品な黒のズボンと鈍い銀色の膝丈ブーツを履いていた。スラリとした長身の彼によく似合っていた。
この時初めて、アデルは自分の赤茶けたひどいくせ毛とそばかすを恥ずかしく思った。
ノエルはアデルの前まで歩いてくると、彼女の目の高さになるように膝を折った。
「はじめまして。アデル姫。わたくしは大陸にある古き王国の一つ、イニス王国の第二王子、ノエルと申します」
彼は優雅にお辞儀をした。間近で見た彼は、丁寧な化粧をし着飾っている女の人よりも綺麗だった。
くっきりとした二重まぶたに、長いまつげが綺麗に並んでいた。
灰色がかった碧い瞳で見つめられ、恥ずかしくなったアデルは側にいた母の後ろにさっと隠れた。
少女らしいアデルの反応に、両親は楽しげな笑い声を上げ、ノエルは朗らかに微笑んだ。
ノエルはまだ幼いアデルにはわからない大人の会話をした後、側近を連れて中庭へと出て行った。
アデルはあわてて後を追ったので、宝石をちりばめた金のティアラが落ちそうになる。自分のドレスを踏まないように走るのは大変だった。
少しでも長い間、一緒にいたい。
城内で走ってはいけないといわれているけれども、今日は特別に許してもらえる気がした。
アデルの婚約披露会なのだから。
息を弾ませ、人波を縫って進む。
穏やかな日の光りが降り注ぐ中庭の木の下にノエルはいた。
その木はこの国にしかない珍しい木で、初夏に白く小さい花が連なって咲く。
彼は興味深そうに木を見上げていた。
遠慮がちに彼を見ていたアデルに気付いたノエルは質問をした。
「この花の名は何というのですか」
「シンシア。今の季節だけ、咲く花よ」
「……そうですか」
ノエルは感慨深げにシンシアを見詰めた。
真剣に花を見詰めるノエルに話しかけてはいけない感じがして、話しかけたい気持ちを抑え、アデルは黙って彼を見詰めていた。
熱心な彼女の視線に気付いたノエルは、小さな婚約者を放って一人物思いにふけていた自分を恥じるように笑った。
「アデル姫」
目の前で跪いたノエルは真摯な態度で話しかけた。
「十年後、この木に白い花が咲いた時、迎えに行きます」
迎えに行く――ノエルのお嫁さんとして、海の向こうにある大陸に連れて行ってくれるのだろう。
嬉しいのとなんだか恥ずかしい気持ちで一杯になったアデルは顔を真っ赤にして頷いた。
「きっと、迎えに来てね」
「はい。必ず」
ノエルは優しく微笑んだ。
ノエルが帰国し、二ヵ月経った頃、イニス王国でクーデターが起こり、ノエルが処刑されたと情報が伝わった。
処刑の意味がわからなかったが、両親のただならぬ様子に大変なことが起こったのだとアデルは理解した。
ノエルは死んでしまったという。
死とは何か。
幼いアデルにはわからなかった。
もうこの世には存在しないといわれても、実感がわかない。
朝いつもと同じように目覚めたが、小鳥の愛らしい声が聞こえてこなかった。不思議に思ったアデルは庭に出ると、かたく目を閉じた小鳥が地に横たわっていた。アデルはそっと手に取ったがぴくりとも動かず、つややかだった羽毛はばさばさで、ひんやりとしていた。
アデルは理解した。これが死だと。
ノエルもこの小鳥と同じようにもう二度と目を開かない。動かない。もう、この世には存在しないのだ。
うそつき。
十年後、迎えに来るっていったのに。
アデルはノエルを思い出した。
肩まで伸びた淡い金色の髪。灰色がかった碧い瞳。アデルの名を呼んだ優しい声。
彼はもういない。どこをどんなに探してもいない。
突然、激しく胸が締め付けられた。喉がひりひりして痛い。視界が狭くなり、額から冷たい汗が流れる。
胃がむかむかしてきて、吐き出した。目からボタボタと滴り落ちる涙が止まらない。
まだ六年しか生きていなかったアデルだが、絶望を知った。決して光が差し込まない暗い淵につき落とされた。
何を夢見て生きていけばいいの?
月のない夜をどう過ごせばいいの?
あなただけが唯一の希望だった。