短編家「靴」 素足でガムを踏みたくない
外に出るとき、必ず人は靴を履いていかなければならない、という厳密な規定はないが多くの人はだいたい履いている。道にはかつてのような自然の危険はないが(植物のとげや動物の毒針、小石など)、人工の危険(地雷やガム)が待ち受けている。地雷は踏んでしまったら最低でも足が吹っ飛ぶくらいで防ぐことはできないが(下手したら命すら吹き飛ぶ)、ガムを素足で踏むリスクは防ぎたいものだ(とはいえ靴についたらついたでいろいろ面倒なのだが)。
靴を履いて外にでると、いろいろなことが待ち受けている。靴は何でも始めるのに必要でもあるのだ。外に出なければなにも始まらない。旅も、恋も、友情も。
だけど、僕が靴を履いて始めてしまったのは、ちょっと空しい体験であった。
靴ってこんなに悲しいのか。
歩道橋を歩くと、靴を持って(はかずに)その手を何度も何度も振っている浮浪者。Beggarだな、とわかる。無視したい気持ちも山々だが、近づいてくるから仕方なくもっていた財布から百円玉を一掴み入れてやる。
まったく、靴は履くためにあるものではないのだろうか。しかしながら、まあ、入れ物として、確かに靴は機能するといえばする。靴があっても、それでもあの人はいろいろなところへはいけない。僕と違って、お金も庇護もへったくれもない。
僕は電車に乗って、そして町に降りて、ふと空いているマンホールにびっくりして、なんでしまってないんだろうと、なかば怒り気味にのぞき込むと子供がいる。出てくる。靴を履いていない。じっと僕の靴をみていう。
「磨きましょうか」
靴を磨いてお金をもらう。彼らは皮肉な商売をしている。靴を磨いてくらすけれど、自分たちは靴を履いていない。ほかの客は高いたばこなんかすったりして、それをまた紳士とあろうものが灰皿を要求する。たばこを買う金はないのに灰皿だけは持っている(こういう場所では子供がすっていようがいまいが警察も検挙しない。捕まえたくないのだろうと思う。捕まえれば保護施設に入れてなんだらかんたら、と面倒な手続きがあるからだ。まったくそれでも僕がおまわりさんなら良心に咎めてしそうなものだが…)この異様な光景に目を背けたい。
マレーシアではゴミ山があるし、いろいろなところで乞食少年たちは、靴を履かずに生活している。客はiPadなんかでエロ動画をみて興奮しているなか、子供たちはドキドキわくわくすることなく暮らしている。
彼らは靴を履いて、学校に行くことができない。靴があっても堕落する人はいる世の中で、靴がないのはもっとまずいことではないだろうか?
友人に電話すると、友人は子供時代に履いていた靴をもってきて惜しげもなくあげた。
「靴がないと、アスファルトは熱いし、なによりガムを踏んでしまうからな」
「ガムはイヤだな」
「ガムはいやなんだよな。まあ、靴を履いていてもガムはイヤだけどな」
「素足よりはましさ」
「素足よりはましか」
そうして、町に戻ってくると、若い女子高生がみんな決まったように(中には学校で指定がある学校もあるのだろうが)ローファーを一律に履いている。そして、ローファー以外にもいくつかファッションとかいってく津を持っているのだろう。
テレビを電気屋で眺めていると、芸能人が靴コレクションとか見せびらかして、やたら高価な靴を見せるが、履かないなら靴じゃないだろう、と思う。だが、そうすると乞食の持っていたのもまた、「靴」ではないのだろうか。まあ、位置の移動には靴は履いているだろうが。乞食だってガムは踏みたくないだろう。
僕はどうしているか、って?スニーカーは何足か持っていて、匂いがひどくなってきたら交代させている。身だしなみ、というのもそうだし、当然でもあるが、なにより、ガムを素足では踏みたくない。
文明の進化の中、靴は生まれ、そして発展してきた。靴はやはり地面の危険を素足で踏まないために作られたものだ。
今の地面の危険は、ガムだろう。
作品名:短編家「靴」 素足でガムを踏みたくない 作家名:フレンドボーイ42