オキゴンドウ
1
私は一人だった。
夕暮れの頃、穴だらけの軽い煉瓦で出来た道に、生ぬるい光線が辺り一面、血糊の海のように拡がっている。傷んだ敷石の隙間から、黄緑色の、痩せ細った雑草が首を仰け反らせていた。
寒かったのか暑かったのか、季節は覚えていない。
私は赤い毛糸の服を着ていた。
背には、幅の広い階段があった。それほど高いわけではない。十段かそこらが精々で、短い踊り場を越して、もう一つ階段が続いていた。
鎧戸の下りた土産物屋たちが、無表情に並んでいる。
その左手に、白塗りの円柱形をした何かが建っていた。
子供の目には、それは何とも形容し難いもののように見えた。建物と呼ぶにはあまりに小さい。おぼろげな記憶のなかでは、《それ》の高さは2メートルかそこら、幅は、3メートルくらいだったような気がする。壁面に扉はなく、柱というには低すぎ、何をも支えてはいない。
傍に寄ると、いくつか、小さく窓がついているのが分かった。一つ、二つ、三つ……全部で六つほどはあったように思う。窓の周りには鍍金をした、丸い鉄の飾りがついていた。
私は窓からなかを覗きこんだ。
何か――何か、黒く大きなものが、青緑の水のなかをぐるぐると旋回している。
それは水槽なのだった。
充たされた水は、わずかに汚れていた。その水中に生き物の棲むことを示して。その鈍さが、黒いものと窓の間へうつろに挟まっている。
黒いものは、水中で廻り続けていた。
《彼》は一頭だけだった。
私は彼を見ていた。
彼も私を見た。
ほどなくして、目が合った。
薄っすらと白い、膜の張ったような。
魚の目だった。
私は後じさり、水槽――そうと分かってからも、あまりそのようには見えない――の右手にある、小さな銀色のプレートを見た。そこには、片仮名で「オキゴンドウ」と書かれていた。当時の私は知らなかったが、鯨の一種であると言う。
窓の向こう、彼はいまだに回転を続けている。
ぐるぐると、しつこく上塗りされる弧の線は、先ほどからほとんど変わらない。
恐ろしい眺めだった。
ふいに、私は遠くから親たちに呼ばれた。
どうするべきか、私はほんのわずか考え、水槽を離れると、声のした方へ駆け出した。
あの頃の私はまだしも、満足に走れていた。
そこがどこだったのかは分からない。いまとなっては私の思い出は曖昧で、そこまでは覚えていないからだ。その頃の自分の歳も、よく分からない。六つ下の弟が、生まれていたのかどうかも。
私はただ、押しこめられた黒の、あのぐるぐると廻る曲線を、ぼんやりとした恐ろしさと共に覚えている。