夏と浴衣と線香花火
それは夕闇に大きく浮かぶ魔界の月明かりの下のこと。
人間界では現在夏、真っ盛りだ。そんな話の折「花火を観にいきたい」という可愛い伴侶の申し出を、王子シヴァは微妙な心地で受け止めた。
そもそもシヴァは伴侶が人間界に行きたがることを良しとしない。なぜなら深雪に里心が付いてしまうことを密かに恐れているからだ。
だからせめてもと、多忙を理由に左牙宮の庭園の一角で、おしゃれ浴衣に線香花火と洒落込むことを提案した。
本日の深雪の浴衣は、紺地に白で桃花をあしらったものだ。
肌の白い深雪に映えるように紺地は良く似合っていた。
「……本当は、しばと日本の花火、観たかったんだけどなあ」
線香花火に視線を落としながら、深雪が小さく呟いた。
シヴァがちいさくも良心の呵責を覚えながら視線を投げると、それに気づいた深雪が小さく笑う。
「だって、しばと初めて会ったのが夏だろ?」
ぽとりと落ちた線香花火の火種が消えて行くのを眺めてから、深雪ははんなりとはにかんだ。
「…………」
考えていたことと違うことを告げられて、シヴァは軽く瞬き深雪を見つめ返した。
「別に出会いの記念日をあっちで過ごしたいっていうんじゃないよ。……ただ、いろいろあったな、って」
乙女じみた考え方だと思ったのか、深雪はぷるぷると首を横に振って自らの言葉を慌てて否定する。
そうして、もう一本線香花火を取り出すと、深雪は側にある火トカゲの頭をとんとんと促すように叩いた。すると口と思しきそこからぽふっと小さな火が吐き出される。
確かにシヴァと深雪はここに至るまでいろんなことがあった。それこそ、死ぬような思いもしたし、別居もしたし、そうかと思えば猫耳が突然生えて発情期がやってきたり。
今も生きているから。毎日ちいさな愚痴や不満はあるけれど。深雪は幸せな日々を送っているつもりだ。
人間界で、一人で生きていたら知らずにいたことも、シヴァに会うことで満たされた。シヴァは深雪に生きて行く一つの道を示してくれた、とさえ思っている。
だからもう、シヴァに会う前。自らがどう考えて生きていたのか、毎日をどう過ごしていたのか、今の深雪には虚ろにしか映らないし、思い出すこともない。
「そんなこと考えたら……久しぶりに原点回帰もいいのかなって思ったんだ」
――一緒に過ごせる今を感謝するために。
言外に告げられた言葉と笑顔にシヴァは軽く目を伏せた。
言葉が出ない。ただ、じっと深雪を見返すだけだ。
「……すまない」
深雪は照れたように、ふいっと顔を背けた。
「だから、責めてるわけじゃないのに」
もちろんその謝罪は深雪の想いに気づかずに、勝手に自己完結したことだが、シヴァはその理由を唇に乗せることが出来なかった。
「……いいよ、仕事忙しいんだろ。それくらいわかってる」
ふるふると首を横に振ると、深雪のハニーブラウンの髪が月光に反射してきらきらと光る。
「……後、心配しなくても。俺、帰りたいなんて言わないよ」
まるでシヴァの心を見透かしたように、深雪は静かにそう告げた。
「……深雪」
深雪の言葉を探るように、シヴァが顔を近づけてじっと瞳を覗き込む。シヴァのどこか真剣な視線に深雪は軽く瞠目し、でも素直に頷いた。
「本当だって」
シヴァが本当に疑っているわけではないことを、深雪は全身全霊で知っている。大事にするあまり、漠然とした不安が胸中にあるだけだということも。
「こうして花火も用意してくれたし、一緒にいてくれるだけでおれは……ちょ、しば?」
ぐい、と突然シヴァに引き寄せられて、体勢を崩しそうになった深雪は慌てて身を捩った。どんなにちいさくても、今手にしているのは線香花火なのだ。
「……だめ。火が落ちちゃう」
僅かに抗う深雪の言葉も構うことなく、シヴァはいささか強引に、帯に巻かれたその細い腰を引き寄せた。
「大丈夫」
シヴァは根拠もなくそう告げて深雪を腕に閉じ込めながら、その唇を塞いでしまう。
「……ふん、んぅ……」
根拠のないその言葉は果たして誰に向けられたのか。
花火を持っているため、本気で逃げることも叶わず、深雪はされるがままにシヴァの舌を受け入れた。
それはすぐに甘い吐息に摩り替わる。
深雪の身体が傾ぐのと同時に、線香花火が大きく旋回してぽとりと火種が地面に落ちた。
今まで可憐に花開いていたそれは、地面に叩きつけられるとじゅっと音を立てて、儚くも消えてしまう。
火薬特有のにおいが一筋の煙と共に立ち上り、深雪の鼻腔を擽った。
途中で終わってしまったそれを、深雪は少し残念に思う。
――次の線香花火は、シヴァと一緒に持とう。
最後まで火が落ちないように。一緒にいられますように。
それはどこか祈りにも、似ている。
二人並んで、静かに花を見送るのも悪くないように思えた。
そういえば……。
初めてキスした時も、月の綺麗な夏の夜だったな。
そんなことを思いながら、深雪は口腔内を蹂躙するシヴァに応えるように、自らも舌を絡めたのだった。
【了】