踏越えて代償
居酒屋の片隅のテーブル。4人の背広の男が席についていた。
「ああ。……永かったね。それでいて、短かった」
白髪が目立つ初老の男性が中年に言葉を返す。
倉津氏は当年の1月で60歳を迎え、明日、勤務する市役所を定年退職することになっていた。本日3月30日。年度末である。
居酒屋は毎度の如くガヤガヤと騒がしい。そこ彼処から笑い声が聞こえてくる。
部屋の片隅・・・、倉津氏たちが座っている真上のテレビからは、ニュースが流れる。殺人事件のニュースの後にはプロ野球の結果。倉津氏ひいきのフェアリーズは開幕からスタートダッシュに成功。目下三連勝中で喜ばしいことである。
それを聞きながら倉津氏は自身の生涯。特にここ20年のことを考えていた。住宅ローンの支払いでてんてこ舞いだった。
大きな借金も完済して、残りの人生は自宅で妻と、ペットのインコと平穏に暮らす。これが今の倉津氏の夢だ。
息子の晴康も何とか大学にやって地元大手の建設会社に入社したし、娘の規子は今現在キャンパスライフを満喫中。手が掛からなくなったので、幸せな老後を送れそうである。
倉津氏は同僚3人と別れ、居酒屋を後にした。
真っ暗闇の夜。月明かりと街灯が道を照らす。
倉津氏は月を見上げて、また思いを巡らせる。
この20年は実に様々なことがあった。家族の暮らしは実に逼迫した。
それにはこういった事情がある。倉津氏が40歳のころ、彼は知人の借金の保証人になった。ところが、知人は借金を踏み倒して夜逃げ。倉津氏は、住宅ローンのほかに負債を抱える羽目に陥ってしまったのだ。
よく耐えた。役所にばれないように皿洗いのバイトさえした。あの洗剤の咽るようなニオイは今でも忘れない。妻も子供も支えてくれた。今では、すっかりローンも負債も完済し、身が軽くなった。
そんなことを考えながら、人気の少ない道を進む。夜道の暗い曲がり角を曲がった。
そのときだった。黒い革のジャケットを着た男が倉津氏に体当たりしてきた。
倉津氏は何がなんだか、分からない。
目で見据えれば、男は右手に血塗られたナイフをぶら下げている。
「うぁっ……!なに……を……!」
自身の腹部を触ってみれば、血を流している。
倉津氏は堪らず膝を着いた。
「天罰だ」
男は細い目を光らせニヤリと笑う。
「よくも俺たちの家族を滅茶苦茶にしてくれやがって……!」
「何の話……だ……!」
倉津氏には身に覚えがない。
「ふざけるな」
男の口から、憎悪に塗れた言葉が放たれる。
「お前、税金未納者のリストを金融屋に横流ししただろ」
「えっ……」
倉津氏の脳内に、記憶が蘇る。
そうだった。20年前、債務を減らす約束で金融屋に市税滞納者のリストを数年にわたって横流しし続けたことを。葛藤は正直あった。しかし、家族の暮らしのためには致し方なかった。
「税金未納者なんて、金融屋のいいカモだもんな。案の定、ウチはしゃぶりつくされた。親父も、お袋も、首を括って死んだ!」
男の顔が憎悪に歪む。
倉津氏の力がどんどん抜けていった。もう、立ち上がることもできない。ただ、呻く。恐怖が今頃、倉津氏を支配していた。
「人間の風上にも置けねえよ……!とっとと死ね!」
男がナイフを振り上げた瞬間。倉津氏の脳裏に焼きついたのは、ホンの小さな過ちに対しての後悔。
次の朝、倉津氏は体中を骨が露出するほどめった刺しにされ、河口の葦に引っかかっているところを発見された。