挨拶哲学反対
逆に問いたい。なにを持ってして挨拶の不要性を感じるのか。
最近この手の偽哲学が大はやりな気がしてならない。なんで靴をそろえなきゃいけないのか、とかなんでいただきますと言うのか、とか。
記号にいちいちつっこみを入れてはならないと僕は思う。挨拶をすると言うことで、「あなたと私は赤の他人ではありません」ということが楽に証明できる。いちいち文章を記して朱肉をもってきてスタンプ幼くていいなんて実に効率的ではないか。しかもこれだけで自分の状況まで証明できる。近くにきているな、とか、電話の向こうは時差があるな、とか。この情報(化)社会(今や○○化というには余りに進みすぎているきらいがある)において一番便利な方法だ。
靴をそろえるのはスペースの有効活用と自分の靴を探す手間を省くことに有効だし、いただきますと言うことは、食事を開始すると言うことが分かりやすい。気がついてたら食べてました、というのでは、いろいろ不都合が生じてくるのがわからないだろうか。食事時間がみんなバラバラであると言うことは仕方なくても、それが分からないと時間配分に気を使わざるを得なくなるのだから。
挨拶は潤滑油にたとえられることもあるが、むしろ僕は潤滑油を挨拶にたとえるべきではないかと思う。挨拶不要論とか考えている人たちの気が知れないのと同時に、それに対して「おまえは黙っておはようと言えばいいんだ」といえない人たちもばかげているとしか思えない。もう古人が作ってくれた、うれしい発展する社会向けのルールだというのに。