人志
そのあとで、
俺の無二の親友だった人志は
ひとみの中心の色が薄くなってしまって
今は少し「見えづらい」という。
それから人志は
引きこもってしまった。
そして、20年がたとうとしてる。
18歳だった人志は、
今もまだ、18歳のように思える。
:
扉をたたくと
中から、「どうぞ」と
沈むような声が聞こえた。
いつも、このドアノブをひねるたびに
ほんの少し違和感を感じる。
部屋の中が埃っぽいってわけじゃないのに
神経質な、まるで嘘くさい綺麗さを感じるのだ。
空っぽなのに、何かが満ちている。
決して強くない、折れそうな何か。
20年間の屈折が、そう思わせるのかもしれない。
日常と剥離した、妙に、軽い匂い。
人志が閉じ込められている檻。
でも入ってしまうと
すぐにそんなことは
気にならなくなる。
「どうしたの?」
人志の声は
ゆらゆらした水の
まったく暗い、暗い
とどかない底から響くような
静かな、しずかすぎる声で
鋭くも、たいして大きくも無いのに
無視できない。
俺のカルテを取りながら
親人志は穏やかに微笑んでいる。
(18歳のままだ)
俺は毎回、思う。
そして毎回、
もう二度とここに来たくない、と思う。
「どうもしない、ちょっとね」
俺は38になった。
人志の年は、当たり前だけど
あのときの1年後に追い越した。
「ちょっとしたことだ」
自分の意思で来ておいて、
なんでか、素直に話すことが出来ない。
人志が、お茶をすすめる。
淹れている気配はないのに、
俺が――客がいつ来るなんて
分かるはずないのに
お茶はいつも、湯気を立てている。
唇をひらいて、言葉が出なくて
茶色の茶碗を片手で持った。
口をつけるとぬるくて、
唇がしめった。
人志はうすい目で
ただじっと微笑んでいる。
何も言わない、俺を見ている。
目をそらす。
「仕事のことで……」
「仕事は、順調じゃない」
奴の瞳が、穏やかにゆらぎ、
真ん中のうすい色が
俺の顔からそれて
俺は心の底からほっとした。
ため息をつきそうになって
その息を思わず飲み込んだ。
背が痛くなる。
こいつは、いつからこんな笑みを
始終はりつけるようになったんだろう。
「……」
「あゆみさん?」
相変わらず、こちらが隠していることを
全て知っている。
言われるたびに驚くので止めて欲しい。
息を呑んで目を丸くしていたのだろう、
俺の顔を見ていた奴が、
ぷっと吹き出した。
「変な顔」
クスクスクスクス
肩をふるわしてやがる。
「どうやって調べるんだ?」
ここでしか、動けないくせに。
「ちょっとしたことだよ」
なあに、ちょっとしたコツ。
18歳のとき、俺もこんな
綺麗なほほをして、
薄い氷のような笑みを浮かべていたんだろうか。
「……」
「もういっそ、やめてしまえばいいのに」
君らは人を愛するたびに
なんだか卑怯だよね。
人志には
そう思えるんだな。
俺はそう思いながら
「俺はもう人を愛するのを止すよ」と言った。
少々リラックスしはじめていた。
人志がじっとこちらを見ている。
やめてくれ、まるで観察されているみたいだ。
「その目は何だよ」
「君は人を愛せるの?」
「ああ? あゆみにはよくやってあげたと……」
「君は40近くにもなって、
人に与えられることだけを
望んでいるみたいだね」
人志が、さみしそうに目をそらした。
「正直に答えてね、
愛したいの?
愛されたいの?」
俺は答えられなかった。
人志は手元にあったノートに
4Bの鉛筆で色濃く「なし」と書いた。
「この部屋が
君にひらかれるたびに
僕は君を絞め殺したくなる」
「はは……」
笑みを無理やり浮かべたけど
きっとひきつっていただろう。
「何を望んでいるんだろう
今、君のてもとにある
それ以上の何を、君は望んでいるんだろう
君は気がついていないだろう、
弱ったときだけ
人を責め、望みを叶えてくれと、
君は叫んでる」
4Bの鉛筆が、なし、とかかれた上に
ノートの上に「よう」と書いた。
――ようなし――
「君は
手に入れた、望んで手に入れた人でさえ
大事に出来ないし
幸せに出来ないんだね」
「あ、あゆみが悪いんだ、あいつが」
「知らんよ、そんなことは……」
人志は微笑んだまま、
けっして笑わずに、俺をじっと見ている。
突然はじけるように
人志が笑った。
げら、げら、げら、と。
唇の奥がまっくらだ。
来るたびに、必ず最後に
人志は笑うんだ。
必ず笑うんだ。
「じゃ、今日はこれで終わりです」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
俺はいつの間にか18歳になっている。
制服だ、ああ、ここは
あの学校だ。
ふるい、くさい、大嫌いな学校だ。
あの、人志が
プールに沈められたのを
とめられず
俺は、愛想笑いを浮かべている。
塩素の臭い。
ああ、また、とめられないで居る。
男たちの ほほにニキビや、あぶらぎった幼さを残して、
けれどけっして子どもではない
男たちの、罵声と卑しい笑い声。
俺は愛想笑いを浮かべている。
「君はやっぱり越えられない」
「ちょっとまってくれ人志……!
俺は、俺は、俺だって」
「おまえの正義は聞いてない」
人志が溺れ死にながら
水から目だけをだして
俺をにらみつけている。
「愛はただしいものですか?
それとも弱くなるものですか?
いや、
愛は
悪にも、善にも
そして強くも
弱くもなる、
人を変える
毒薬であり、
最後の、薬です」
叫んだ気がする、
人志、と。
「ここには
僕を殺した人たちも
いっぱいくるよ。
20年たっても
彼らはまだ歩き出せないで居る。
僕がまだ18歳なのが
辛くて、辛くて、
でも自分の所為だとは
思えない――思いたくないみたい」
人志、と、もう一度叫んだ
暗い水の中に
人志の顔が消える。
誰かが汚れたモップで
人志のあたまを押さえ付けてる。
「むしろいいじゃないのか?
と、彼らは考えている
こんな現実を知らないで
青春さなかで、現実乖離できてさあ」
人志。
「現実の苦痛を味わいながら
彼らは救われたいと望んでいる。
そして苦痛は
自分以外の誰かの所為だと
叫んでいる」
笑ってる笑ってる
人志が笑ってる
助けてくれ、誰か
助けてくれ
――誰を?――
「ねえ? 誰を?
僕は君がうらやましい」
ふ、と
目が覚めた。
目の前に真っ白い天井が
ぼやけてうつった。
また、あの夢か、と思った。
しっかりしろ、と。
ここは現実で
もう数十分すれば仕事の支度で、
あゆみは多分浮気をしているけれど、
色々やることがあるんだ。
それに人志は死んでいない。
死んだなんて、
誰かが、言い出した単なる噂だ。
うそだ、生霊じゃない、違う。
耳に、静かな
しずかな、
無視できない声が残っている。
「人が信じられるなら
歩き出せるじゃないか」