空の花
耳ばかりでなく、身体にも響く大きな音が空にこだました。
「始まっちゃったよ。急がなくちゃ」
彼はわたしの手をとると走り出した。
「ちょ、ちょっと待って……」
いきなりのことに、下駄が脱げてしまったわたしは、あやうく転びそうになった。
花火大会の夜。
久しぶりで都会から帰ってきた彼が、わたしを誘った。
「もう! 突然走ったりしないでよ」
下駄をはき直して文句を言うと、彼は悪びれもせず、
「転ぶ前に抱き留めてやったのに」
などとしれっとして言う。
「場所、とっとかなくてよかったのかな?」
「いいわよ。そこらへん、ぶらぶらしながら見れば」
こういうイベントの時の場所取りがわたしは苦手だ。だから、たいてい行き当たりばったりで適当な場所を陣取る。
二人で見る花火も何年ぶりだろう。
ここ数年、彼は花火大会の日には帰ってこなかった。仕事の都合がつかなかったためだ。
だから、連れもいないわたしは、あまり好きではないことも手伝って、見にいかなかった。
花火が次々とうち上がる。暗い空に色とりどりの花が咲く。
「へえ。しばらくこないうちにずいぶん景気よくなったな」
「うふふ。そうよ」
わたしたちが以前見に来たときの花火大会は貧相なものだった。
一つ花火を打ち上げると、しばらく上がらない。観客はブーイングしていたものだ。
けれども、数年前市長が変わってから、ずいぶんと派手な花火大会になった。
ドーン ドーン!
「わあ」
見事な花が開くたびに、歓声が上がる。彼もわたしも無言で空の花を見いっていた。
華やかだけれど、はかない一瞬の花。
──湖の花火、一度見せてあげたい──
ふと、ある記憶がよみがえった。
ずっと昔、好きな人からもらった手紙に、書いてあったことば。
(やだ。なんで思い出したんだろ)
久しぶりに見た花火が、それを思い出させたのだろうか。その湖の花火大会は全国的に有名で、以前テレビで見たことがある。
その人は今頃、故郷のその湖の花火を見ているのだろうか。誰かと一緒に。
それがわたしでないということに、今はもう何とも思わないが。
それでも胸の奥が微かにいたむ。
それにしても、わたしは彼のなんなのだろう? 遠距離恋愛の恋人同士? ただの幼なじみ?
いつの頃からか、彼は帰省するとわたしを誘いに来るようになった。
その人との結婚を反対されて以来、来年は三十になるこの年まで、親から結婚について何も言われないのはありがたいが。
「ん?」
じっと横顔を見ていたら、わたしの視線に彼は気づいた。
「子どもみたい」
「こいつう」
彼は指先でわたしのおでこをはじいたあと、すぐに真顔になった。
「……たせて……ん」
ドーン ドドーン
「え?」
ひときわ大きな花火が上がって、その音で彼の声がかき消された。
「なんて言ったの?」
「聞こえなきゃいい。二度と言わない」
「ひどーい」
わたしはふくれたふりをして、そっぽをむいた。
「おい」
彼の手がわたしの肩を引く。ふりむきざま
肩を抱き寄せられた。
「やだ。人が見てる」
「見てやしないよ。みんな花火に夢中だ」
そう言って彼はわたしの左手を取った。
きらきらと海面に火の花が散っては消えていく。
「待たせてごめん」
今度ははっきりと聞こえた。
そして、わたしの薬指に消えない花が輝いていた。