綿津見國奇譚
序章
一、誕生
深夜、雨はいっそう激しくなった。
逆巻く風は地を揺るがし、木々は狂ったようにくねる。折れた枝が風にさらわれてゆくその先は、黄泉の国であろうかと思われるほどひどい嵐の中、洞窟の奥深く、今、新しい命が生まれようとしていた。
「ううっ。ああ」
産みの苦しみに耐えているのは、クシナダ(櫛稲田)族のスセリ(須勢理)媛である。無惨にも一族を亡き者にされ、王家ではただひとりの生き残りで、逃走の途中、嵐をさけて入ったこの洞窟で、陣痛がはじまったのだ。
美しい顔は苦痛にゆがみ、額には油汗がにじむ。従者のムラクモ(叢雲)はその手を握り、励ますのだった。
「大丈夫ですよ、媛。ご安心ください」
そのことばに、スセリ媛は安心したように、かずかにほほえみをかえした。
ムラクモは王室の祭司を努めるホデリ族の賢者で、媛が頼りとするのは、もはやこのムラクモと、その息子クサナギ(草那芸)だけなのだ。ムラクモは、少し離れて入り口を守って立っている息子に向かって言った。
「クサナギ! しっかり守るんだぞ」
「はい! もし敵が来てもここより先へは通しません」
クサナギは力強く答えた。まだ幼さが残る顔立ちだが、尊敬する父のようになろうと日々鍛錬してきた姿は、未来の賢者の風貌をちらりとみせている。
落城から辛くも逃れてきたこの洞窟も、追っ手に見つかるのは時間の問題だった。クサナギは、外の闇に向かって結界を張っていた。
クサナギが、実戦で術を使うのは生まれて初めてのことで、高ぶる気持ちを抑えながら、かまえる太刀の切っ先は、かすかにふるえていた。
稲妻が漆黒の闇を裂く。
暗い嵐の空に雷鳴がとどろいたそのとき、洞窟内に産声が響き渡った。
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ!」
「媛さま。しっかり!」
「スセリ媛!」
「赤ちゃんは? わたしの子は……」
「元気でお生まれです。男の子と女の子の双子でございます」
ムラクモは手際よく赤ん坊の体を洗い、きれいな布にくるんで媛の傍らに寝かせた。スセリ媛は、赤ん坊の顔を見てにっこり笑った。
「よかった。この子をお願いね。男の子はヒムカ(日向)、女の子はサクヤ(佐久夜)と……」
ところがその直後、媛の容態は急変した。息使いが荒くなったかと思うと、しだいに弱くなっていったのだ。
「媛?」
「あり…が…とう…。ム…ラク…モ、クサ…ナ…ギ…」
いったいどうしたことだろう。医術の心得のあるムラクモが見ても、媛はすこぶる健康体なのだ。なのにこの衰弱ぶりはどうだ。
「これ…でわたしの……役目は……終わりで……す」
「何をおっしゃるのです。これからあなたさまが国を再興させるのですよ」
ムラクモは媛を励ました。
「いいえ……ムラクモ……。わたしには……この日が…くるのがわかっ……ていま…した。身ごも…った日から……生まれ…てくる子供と……わたし…の命は……引き替え…なの…だと……」
「媛! 媛さま」
スセリ媛はそのまま静かに息を引き取った。この逃走のさなか、急に産みの苦しみが始まり、赤子の命と引き替えに、自分の命を失ってしまったのだ。
思い返せば、媛の懐妊は実に不思議なものだった。
三年前のある日、突然その兆しがあったのだ。深窓の媛君が、男も知らぬはずなのにと、宮廷中が右往左往した。
王は怒り、スセリ媛を離宮に幽閉してしまったが、その後はなんの変化もみられず、これもまた周囲を驚かせたのだった。今、生まれ出た皇子たちは足かけ三年もの間、母親の胎内に入っていたのだ。
しだいに冷たくなってゆく媛の手を握り、ムラクモは声を押し殺して泣いた。クサナギもそばに駆け寄って泣き崩れた。
スセリ媛はクサナギの従姉にあたり、まるで実の姉弟のように仲が良かった。
「スセリ媛!」
ムラクモがスセリ媛の亡骸に白い布をかけた時、すすり泣いていたクサナギが叫んだ。
「お父さん! どうにかならないの!」
「バカを言うな、クサナギ。いくらなんでも死人を生かすことなどできるものか」
「だって。お父さんは賢者でしょ。方術だって誰よりも……」
「それでも! 自然に逆らう術を使うことは禁じられている!」
「でも、このままじゃ、皇子たちがかわいそうだ。母君がいなくて」
クサナギは、赤ん坊の顔をじっと見て唇をかんだ。双子の赤ん坊は、すやすやと眠っている。
ムラクモには、息子の気持ちがよくわかった。クサナギも母の顔を知らずに育ったからだ。早くから大人に交じって剣の修行をしているといっても十才の子供だ。無理もない。
王室に仕えるホデリ族は、特殊な力を生まれ持っている少数部族で、力の強いものは念じるだけであらゆることを可能にできる。
それは使い道を誤ると、世界を滅ぼしかねないほどの威力を出すのだ。だから、その力は自らのためでなく、あくまでも国の平和のために使うことを掟としている。
そのため、権威や富や名誉といった利己的な欲望をもたぬよう、幼い頃から厳しい精神修養をつむ。そしてその特殊な力(=方術と呼んでいる)を正しく使いこなす訓練とともに歴史、気象、天文、医学、他部族の言語まであらゆる知識を会得しなければならない。
賢者は、それらに加えて武術の修行もある。賢者は官職につかない自由な身分でもあるが、逆に国の一大事には、命をなげうってでも国のためにつくす義務が課されているのだ。
ホデリ族の賢者の息子として生まれたクサナギも、幼い頃からことのほか厳しい訓練の日々を送ってきた。ムラクモは日々成長する我が子を見るのが楽しみだったが、ときおり見せる子供らしい横顔に、母の愛を知らずに育ったことを不憫にも思っていた。