蚊
深淵をのぞくとき、またその深淵にお前も覗かれている。――その一行を彼が読みとくのに費やした時間は途方もなものであった。彼には優れた目があるが、それゆえに逆に時間が必要になるのだ。優れているということはなににとってもいいこととは限らない。だが、腐って余らせて腐臭がするほどに暇である彼にしてみればその途方もない時間を一行に寄せるのは実に有意義なのかもしれない。
ゆえに私はその言葉のとおりに、彼自身を覗く深淵として傍らにいた。私はいつも傍にいる。しかし、遠くにあり、曖昧であり、はっきりとしており、すべてを知り、無知であり、愚かであり、智そのもののように在った。
私はわざと彼の前に這いずった。耳の良い彼ならば私のこともすぐに察することができるだろう。先ほどから手をこすりあわせて私の言葉を彼はとても楽しみに待っているのが伺える。
光のない深淵のなかで彼は退屈というものに飼い慣らされるかわりに時間を手に入れた。そのなかの娯楽はささいなものだ。食事と物語。
彼は私がほしいものがなんなのかちゃんとわかっている。
たっぷりの時間を使ったあと彼は長い腕をのばして蝋燭に火をつけた。ようやく私は私を作り出すことができた。
「もっと灯をくれ」
「よしてくれ。私の良き友よ。私の目がつぶれてしまう」
私の良き友の利点は闇でも決して困らないことだ。しかし、それは私にとってはいささか困るのだ。
深淵は深淵と気がつくものがいなければ深淵となれないように、私たちは誰かに気がついてもらわなくては存在できない。
彼はしぶしぶと、蝋燭を一つ、二つと増やした。
彼の姿が照らされ、光と闇がその意義を果たしていく。
私はようやく彼の前に数十年ぶりだろうか、姿をあらわした。彼にしてみてみも私にしてみてもそれはたいした時間ではなかった。そう、退屈すぎて本の一行をじっくりと指でなぞり、空気にとけこませるかのような有意義な時間の終わりを告げるようなものだ。
再会が約束され、別れが必然である以上に当たり前に。
「何年ぶりかな」
「忘れてしまったよ。私がここに隠居してきて長いからね」
彼は声を震わせる。
「もう外にはでないのかい」
「出れないさ」
彼は笑った。すべてを馬鹿にして、諦めてしまったかのような声だ。彼の声はバリトンで良く通るが、そのかわりにいつも悲観たる気持ちを聞く者に与える。
「君はどこにいったんだ。どこでもいける。どこにだって存在する君は」
「……土産がある。これをとってきた」
私が懐からそれを取り出すと彼はさっと顔を片手で覆った。
「ああ、よしてくれ。光が強すぎる。なんだい、その光ものは」
ヒステリーな声に私はさっと懐にそれをしまった。
「君の同胞のものだよ」
「同胞?」
「正確には仔のものだな」
私の言葉に彼のヒステリーはたちどころになおった。彼は理性的かつ、知的である。ゆえに友人でいるのだ。
彼は目の前に提示された餌にまんまんと喰いついたというわけだ。年増の娼婦が今日の酒代のために足を開くように。
「君の仔の一人がまた死んだ。それを見てきたのさ」
うむ、と彼はもったいぶったように鷹揚に傲慢に頷いて腕を組んだ。
「教えてくれないか、その仔はどういう仔なんだい」
「知りたいのかい」
「退屈を紛らわせるものにはなるさ」
彼は肩をすくめた。私は頷いて話してやることにした。実は話したくてうずうずしていたのを悟らせないためにも、できるだけ慎重に、ゆっくりと、もったいぶって。
■
その仔に名前はあったはずだが、しかし、悲しいかな、君の同胞はどうしたことか、いつも名を忘れてしまう。生まれた瞬間からすべてを学び知っているというのに君の仔らは必要なものとそうでないものの判断がいつも手厳しい。自分の名は最も不要なものとして一番はじめに忘れてしまう。あれはくせかい? ああ、そう、くせなのかい。だから、その仔にも生憎と君に教えてあげる名はないんだ。不必要かい? そうか。そうだね。ん、ああ。まさか生まれてかのことではない。私がその仔を見たときは、その仔は眠っていた。
その仔は君の他の仔と同じく生まれたときにさまざまな経験をしたんだろうな、その挙げ句に眠ることを選んだ。
今回の仔は、それは美しい仔だった。
白い雪のような髪の毛に、青い眼をした。
その仔は美しい雌だった。
その眠りを妨げたのは、その彼女の一族の男だ。
孫か、さらなる孫か。悲しいことに、ただ男は血も、君の血もひいていなかった。
黒髪の美しい黒い眼をした男だったのだ。
は、よしてくれ。私はそんな男をいいとは思わない。まぁ聞けよ。
その男は貴族で、それはたいそうな金持ちだった。
ただしそれゆえに世界のすべてを憎んでいた。陳腐な話しさ。才能や金が人よりもあるものはいつだって神様から意地悪される。生きている人間たちから妬まれ、憎まれ、嫌われる。彼はそれだった。
彼ね、両親を不運にもなくし、人に騙され、裏切られてのついてない人生に嫌気を覚えて祖先の古い城へと逃げたのさ。
彼女はとても利口だった。その点については君の仔たちはいつも利口だったといえばいいのかな。ただ利口すぎるところが難点だったのかもしれない。彼女は自分の所有する城でもとても古く、人が近づかないものをねぐらに選んだのさ。そしてちゃんと遺書も作って眠りを妨げないようにした。自分の死後、その城を決して開けてはいけないと、ね。彼女は眠る前に恐ろしい事件があってね。そう、彼女の仕業さ。それで人は彼女の遺書に書かれた魔封じしたる城をあけてはいけないというのを忠実に守っていた。君の血を引く仔はいつも不思議であったが、それゆえに大勢というものが敵としていかに不愉快で困りものかもわかっていた。敵が一体に対して大勢の者たちは数によって恐怖と向きあう。それが最も恐ろしい恐怖の塊で、ときとしては破滅しか与えないということも歴史から君の仔らは学んで知っていた。
彼女の愚かなところは人の恐怖を逆手にとったにもかかわらず、それを破る不届き者がいるとは考えなかったことさ。いつも利口なものはたった一人の愚か者によって足をすくわれて転ぶ。まぁわからなくても仕方がない。いくら利口であってもわからないさ。未来のことは。
彼は彼女の城に信仰深い一族たちの反対を押し切って彼女の城へと赴くと、彼は彼女の眠っている棺を見つけた。
彼はとてもとても驚いた。そりゃあ、そうさ、彼女が眠っているんだ。だが人にはそれが死んでいると映った。ただ美しい死体であったのだよ。だって彼女にしてみれば眠っていることでしかなかったのだからね。
彼は知恵があった。
そうそう、知ってるかい。君の仔たちの物語さ。まったく笑ってしまうくらいの欠点だらけの物語だ。まぁ真実がないわけではないがね。
彼は人に裏切られ続けて、そうそう、ここのね、具合がきっと緩んでしまっていたのさ。それとも騙されやすい人間というのはあれかな、常に頭にファンタジィを飼っているのかな? とにかく彼は、彼女を見つけて、自分が持つとても陳腐な知識のそれだと思ったのさ、だから彼女の唇に血を与えた。
ゆえに私はその言葉のとおりに、彼自身を覗く深淵として傍らにいた。私はいつも傍にいる。しかし、遠くにあり、曖昧であり、はっきりとしており、すべてを知り、無知であり、愚かであり、智そのもののように在った。
私はわざと彼の前に這いずった。耳の良い彼ならば私のこともすぐに察することができるだろう。先ほどから手をこすりあわせて私の言葉を彼はとても楽しみに待っているのが伺える。
光のない深淵のなかで彼は退屈というものに飼い慣らされるかわりに時間を手に入れた。そのなかの娯楽はささいなものだ。食事と物語。
彼は私がほしいものがなんなのかちゃんとわかっている。
たっぷりの時間を使ったあと彼は長い腕をのばして蝋燭に火をつけた。ようやく私は私を作り出すことができた。
「もっと灯をくれ」
「よしてくれ。私の良き友よ。私の目がつぶれてしまう」
私の良き友の利点は闇でも決して困らないことだ。しかし、それは私にとってはいささか困るのだ。
深淵は深淵と気がつくものがいなければ深淵となれないように、私たちは誰かに気がついてもらわなくては存在できない。
彼はしぶしぶと、蝋燭を一つ、二つと増やした。
彼の姿が照らされ、光と闇がその意義を果たしていく。
私はようやく彼の前に数十年ぶりだろうか、姿をあらわした。彼にしてみてみも私にしてみてもそれはたいした時間ではなかった。そう、退屈すぎて本の一行をじっくりと指でなぞり、空気にとけこませるかのような有意義な時間の終わりを告げるようなものだ。
再会が約束され、別れが必然である以上に当たり前に。
「何年ぶりかな」
「忘れてしまったよ。私がここに隠居してきて長いからね」
彼は声を震わせる。
「もう外にはでないのかい」
「出れないさ」
彼は笑った。すべてを馬鹿にして、諦めてしまったかのような声だ。彼の声はバリトンで良く通るが、そのかわりにいつも悲観たる気持ちを聞く者に与える。
「君はどこにいったんだ。どこでもいける。どこにだって存在する君は」
「……土産がある。これをとってきた」
私が懐からそれを取り出すと彼はさっと顔を片手で覆った。
「ああ、よしてくれ。光が強すぎる。なんだい、その光ものは」
ヒステリーな声に私はさっと懐にそれをしまった。
「君の同胞のものだよ」
「同胞?」
「正確には仔のものだな」
私の言葉に彼のヒステリーはたちどころになおった。彼は理性的かつ、知的である。ゆえに友人でいるのだ。
彼は目の前に提示された餌にまんまんと喰いついたというわけだ。年増の娼婦が今日の酒代のために足を開くように。
「君の仔の一人がまた死んだ。それを見てきたのさ」
うむ、と彼はもったいぶったように鷹揚に傲慢に頷いて腕を組んだ。
「教えてくれないか、その仔はどういう仔なんだい」
「知りたいのかい」
「退屈を紛らわせるものにはなるさ」
彼は肩をすくめた。私は頷いて話してやることにした。実は話したくてうずうずしていたのを悟らせないためにも、できるだけ慎重に、ゆっくりと、もったいぶって。
■
その仔に名前はあったはずだが、しかし、悲しいかな、君の同胞はどうしたことか、いつも名を忘れてしまう。生まれた瞬間からすべてを学び知っているというのに君の仔らは必要なものとそうでないものの判断がいつも手厳しい。自分の名は最も不要なものとして一番はじめに忘れてしまう。あれはくせかい? ああ、そう、くせなのかい。だから、その仔にも生憎と君に教えてあげる名はないんだ。不必要かい? そうか。そうだね。ん、ああ。まさか生まれてかのことではない。私がその仔を見たときは、その仔は眠っていた。
その仔は君の他の仔と同じく生まれたときにさまざまな経験をしたんだろうな、その挙げ句に眠ることを選んだ。
今回の仔は、それは美しい仔だった。
白い雪のような髪の毛に、青い眼をした。
その仔は美しい雌だった。
その眠りを妨げたのは、その彼女の一族の男だ。
孫か、さらなる孫か。悲しいことに、ただ男は血も、君の血もひいていなかった。
黒髪の美しい黒い眼をした男だったのだ。
は、よしてくれ。私はそんな男をいいとは思わない。まぁ聞けよ。
その男は貴族で、それはたいそうな金持ちだった。
ただしそれゆえに世界のすべてを憎んでいた。陳腐な話しさ。才能や金が人よりもあるものはいつだって神様から意地悪される。生きている人間たちから妬まれ、憎まれ、嫌われる。彼はそれだった。
彼ね、両親を不運にもなくし、人に騙され、裏切られてのついてない人生に嫌気を覚えて祖先の古い城へと逃げたのさ。
彼女はとても利口だった。その点については君の仔たちはいつも利口だったといえばいいのかな。ただ利口すぎるところが難点だったのかもしれない。彼女は自分の所有する城でもとても古く、人が近づかないものをねぐらに選んだのさ。そしてちゃんと遺書も作って眠りを妨げないようにした。自分の死後、その城を決して開けてはいけないと、ね。彼女は眠る前に恐ろしい事件があってね。そう、彼女の仕業さ。それで人は彼女の遺書に書かれた魔封じしたる城をあけてはいけないというのを忠実に守っていた。君の血を引く仔はいつも不思議であったが、それゆえに大勢というものが敵としていかに不愉快で困りものかもわかっていた。敵が一体に対して大勢の者たちは数によって恐怖と向きあう。それが最も恐ろしい恐怖の塊で、ときとしては破滅しか与えないということも歴史から君の仔らは学んで知っていた。
彼女の愚かなところは人の恐怖を逆手にとったにもかかわらず、それを破る不届き者がいるとは考えなかったことさ。いつも利口なものはたった一人の愚か者によって足をすくわれて転ぶ。まぁわからなくても仕方がない。いくら利口であってもわからないさ。未来のことは。
彼は彼女の城に信仰深い一族たちの反対を押し切って彼女の城へと赴くと、彼は彼女の眠っている棺を見つけた。
彼はとてもとても驚いた。そりゃあ、そうさ、彼女が眠っているんだ。だが人にはそれが死んでいると映った。ただ美しい死体であったのだよ。だって彼女にしてみれば眠っていることでしかなかったのだからね。
彼は知恵があった。
そうそう、知ってるかい。君の仔たちの物語さ。まったく笑ってしまうくらいの欠点だらけの物語だ。まぁ真実がないわけではないがね。
彼は人に裏切られ続けて、そうそう、ここのね、具合がきっと緩んでしまっていたのさ。それとも騙されやすい人間というのはあれかな、常に頭にファンタジィを飼っているのかな? とにかく彼は、彼女を見つけて、自分が持つとても陳腐な知識のそれだと思ったのさ、だから彼女の唇に血を与えた。