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愛しき迷子


 ――――――神様は、意地悪だ。




「ただい、ま……?」
 仕事が終わって、帰宅した岸谷新羅を出迎えたのは、見覚えの無い一足の靴だった。玄関できちんと揃えられたそれは、女性物でサイズも小さめだ。新羅はまじまじと靴を見つめた。セルティは影以外の靴を持っていないので、彼女の物ではない。耳を澄ませると、微かに物音が聞こえてくる。
 新羅はそっと玄関を閉めると、足音を忍んでリビングへ向かった。閉ざされた扉にそっと耳を寄せ、中の様子を伺う。そして、ドアノブを掴むと、一気に開け放った。
 突然音を立てた扉に、中に居た二人は肩をそびやかした。一人は勿論、同居人のセルティ・ストゥルルソンだ。ヘルメットを脱いで、寛いだ様子で絨毯に座っている。もう一人、セルティの隣に座り込んでいたのは――――――、
『こら、新羅! お前が驚かすから死んじゃったじゃないか!』
 セルティが、怒った様子で新羅にPDAを差し向けた。死んだのは、もちろん靴の持ち主ではない。テレビ画面の中で、ゲームのキャラクターが谷底に落ちて行ったのを、新羅は目撃していた。
「あの、すみません。勝手にお邪魔してしまって……」
 眼鏡をかけた少女が、コントローラーを握ったまま、おずおずと声を上げた。



 数時間前、仕事を済ませて帰途に着いていたセルティは、偶然見覚えのある姿を見かけてバイクのスピードを落とした。数週間前に知り合った少女が、俯きがちに公園のブランコに腰掛けている。少女はセルティに見られていることも知らず、深々と溜め息を吐いた。
 セルティは公園の入り口にバイクを停め、少女の前に足を運んだ。特別隠れているわけでも無いのに、少女はセルティに気付く様子もなくぼんやりとしている。周囲の人間の方が先に、真っ黒なライダースーツを見つけてざわめき始めていた。
『こんなところで、どうしたの?』
 セルティはそっと少女の肩を叩き、PDAを差し出した。少女がはっとしてセルティを見上げる。少女が手にしていたコンビニの袋が、がさりと音を立てた。
「……セルティさん?」
 少女はどこかぼんやりとしたまま、不思議そうに呟いた。
『なんだか元気が無さそうに見えたから。どうかした?』
 セルティがそう尋ねると、少女は当惑した表情を浮かべた。その顔が今にも泣き出しそうに見えて、セルティは狼狽えながら少女に問いかけた。
『大丈夫?』
 そんなセルティの胸中を知ってか知らずか、少女は軽く首を振って微笑する。
「ごめんなさい、大丈夫です」
 言葉の内容とは相反して、声はいつにも増して頼りない響きだった。余計に心配になるセルティだったが、少女は作り笑いのまま口を開いた。
「セルティさんはお仕事ですか?」
『いや、もう終わって帰るところだよ』
 セルティの仕事は、今日はこれで最後だ。そこでふと、セルティはあるアイデアを思いついた。
『今って春休みだよね?』
 セルティはアイデアを実行に移すべく、少女に確認した。
「そうですけど……?」
 唐突な質問に、少女が不思議そうに首を傾げる。
『良ければ、うちに遊びに来ない?』
 セルティが示した文章を見て、少女はぱちりと瞬いた。



「やぁ杏里ちゃん、いらっしゃい。玄関に靴があったから、誰が来てるのかと思ったよ」
 新羅はネクタイを緩めながら、二人の後ろのソファに腰掛けた。いつもなら、その前に小さなテーブルが置いてあるのだが、今は部屋の隅へと片されていた。空いたスペースに女性二人が座り込み、他には飲みかけのペットボトルと、会話用のノートパソコンがあるだけだ。
 少女、園原杏里は、コントローラーを置いて軽く頭を下げた。
「お邪魔してます」
 丁寧にそう告げた杏里の隣で、セルティがPDAを差し出した。
『おかえり』
 たった四文字の文面に、新羅は僅かに目を細める。
「ただいま、セルティ」
『さぁ、お前のせいで死んでしまったぞ。責任を取れ』
 帰宅の挨拶が済んだ途端、セルティは新羅にぐいぐいとPDAを押し付けた。
「どうやって!? ていうか、君の操作してるサブキャラクターで助けてあげれば、転落死は免れたんじゃ……」
 新羅の発言に、セルティが思わずといった様子で後ずさった。
 セルティが操作していたサブキャラクターの能力はたった一つ、メインキャラクターを高くジャンプさせることだ。主に敵キャラクターにぶつかりそうになったとき、高い段差を越えるとき、そして、落下しそうになったときに助けるのが仕事だ。キャラクターの愛らしさと相まって、ゲーム慣れしていない杏里と遊ぶのに丁度良いと思ってのチョイスだった。
「まあまあ、もう一回やればいいじゃん」
『だって、ゴール目前だったんだぞ!』
 ゲームのマップ画面で、愛らしいキャラクターが操作されるのを待ってゆらゆら揺れている。セルティと杏里で一面から始めて、もう後半の面まで差し掛かっていた。杏里にゲームの腕は全く無いので、殆どがセルティの助けによる成果だったが、後半になって難易度が上がると、一筋縄では行かなくなっていた。
 杏里は特に気にすることも無く、微笑ましく二人の様子を眺めていた。しかし、ある一点に目を留めて、表情を強張らせる。それに気付いたセルティが、杏里の視線を辿った。辿り着いた先を理解して、セルティは慌てて新羅をソファから押し出した。
「え、何々?」
 新羅がソファから腰を浮かしながら、不思議そうな声を上げる。セルティは黙って新羅の白衣の裾を指し示した。新羅が視線を落とすと、乾いた血液が付着して、白衣の裾を汚していた。
「あちゃ。気付かなかった」
 そう言っている間にも、セルティがぐいぐいと新羅の背中を押す。
「じゃあ着替えてくるから、杏里ちゃんゆっくりし」
 セルティは言い終えるのを待たず、新羅をリビングから追い出して扉を閉めた。

『変なとこ見せちゃってごめんね』
 セルティは文章をノートパソコンに打ち込んだ。ゲーム中は専ら影を伸ばして打ち込んでいたが、今は指だけでキーボードを叩いた。
「いえ、気にしないで下さい。少し驚いただけですから」
 杏里は慌てて首を横に振る。
「あの、続き、続きをしましょう」
 セルティが肩を落としているように見えて、杏里はコントローラーを握って促した。キャラクターが楽しそうにマップ画面を行き来する。
『そうだね。よし、今度こそ越すぞ』
 セルティがコントローラーを握って画面に向かったので、杏里もほっとしてボタンを押した。コース上でキャラクターがくるりと跳ねて、もうすっかり見慣れたコースが始まった。



作品名:ホーム スイート ホーム 作家名:窓子