本能リフレイン
そんなこといわないで。
本能リフレイン
その人は微かな笑みを浮かべながら、平気でその――喰べられてもいい、ということを口にした。その瞳は澄んだ青空のようにとても綺麗で真っ直ぐで、心の奥底に抑え込んだ筈の本能がぐずりと疼いた気がした。口内がどんどん渇いていく。
あなたは分かっているのでしょう?わたしの中のもう一人の私のことも、わたしがあなたをどれだけ好きなのかも。…そして、あなたを愛してしまったわたしは本能に従うしかないということも。全て理解していて、その上でそんな非道いことを言うのだ。
「あなたには生きていて欲しいの。どうして…死を選ぶの?」
「俺はお前に喰われるのが望みなんだ。それに、お前じゃない誰かに喰われて終わるのが嫌なんだよ。」
無けなしの理性で説得にかかる。彼の蒼い瞳の奥が僅かに揺らいで、蕩けだしたように見えた。泣いているのかと思ったけれど、次の瞬間には意志が固いことを思わせるストレートな視線に戻っていた。
「今お前に喰われなかったら、絶対に俺は後悔する。」
凛と響く彼の声が、わたしの心を揺さぶる。彼の口調にもう迷いはなかった。
わたしはどうすれば良いの?その問いに正解は無い。絶対的な真理など存在しない。だから、わたしがどうしたいのか、ずっとずっと考えていた。その答えは頭では分かっているし、本能もそう言っている。ただ、心が許さないのだ。
彼から目を逸らして下を向く。これ以上彼の目を見ていたら吸い込まれるんじゃないかと思った。其れほどまでにその眼は澄んでいた。
同族のものたちは、愛することは喰うことだと言う。そしてまた、それが歓びであると。わたしにはそれが信じられなかった。どうして愛するひとと同じ時間を過ごそうと思わないの。ねえどうして、
わたしの顔の右側から、ぬっと彼の左手が伸びてきて、てのひらがわたしの頬を覆う。その手は温かい。
彼がわたしに望むことは、その温かさを奪うことだ。本能を拒むわたしと受け入れる私、そのバランスはもう崩れかけている。頬から流れ込む熱が、私の本能に更に力を与えているようだった。
彼の手によって、俯いていたわたしは軽く上を向かされる。また彼の蒼い目を見てしまった。見てしまった、ら。
――嗚呼、きれいなひとみ。
ぶちり、とわたしの理性が切れた音がした。彼は唇を薄く開いて何かを言ったようだけれど、上手く聞き取ることができない。わたしの中で私が目覚めて、わたしを嘲笑った。「愛なんて要らないでしょう」と言われた気がした。
そのあと、わたしは崖から堕ちていた。その堕ちていく先を形容するには、崖と言うよりも闇と言う方が相応しいかもしれない。黒が広がる世界にただ堕ちるわたしには、上の方でにたりと嘲笑う私がぐんぐん遠ざかっていくのを見ることしかできなかった。
*
*
気付けばわたしは黒い世界から帰ってきていた。目の前には無惨なかたまりが転がっているだけ。否、かたまりと呼べるほど大きくもない、原形のわからないものたちがそこにはあった。
聞き取れなかったと思っていた彼の最期の言葉は、身体に、頭に、沁み込んでいたらしい。喜ぶように歪んだふたつの蒼色と朱い唇と一緒に、彼の声が頭の中に響いていた。
(…生まれ変わったら、今度こそずっと一緒にいような)
END