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深川ひろみ
深川ひろみ
novelistID. 14507
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挽歌 - 小説 嵯峨天皇 -  第一部

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第一章 春霙哀歌(6) - 弟 -



「主上」
 自室にこもっていた桓武を、侍従の乙叡(たかとし)―――前に権少納言で出てきた男である―――が呼んだ。
「後にしてくれ。今は、何も聞きとうない」
 彼は頭を抱え込んでいた。
 早良。
 真実、そなたなのか?
「はあ……それが」
「聞きとうないと言うのに」
「東宮さまと神野さまが、おいでです」
「何?」
 桓武はかぶりを振った。
「ならばよい、通せ」
「は」
 ほどなく入ってきた安殿を見て、桓武は思わず吹き出した。
「お前、何て格好だ」
 安殿は、神野を抱いたままだった。猿が子供を抱いているようである。泣き疲れて、神野は眠っている。
「失礼ですが」
 一応断ってから、安殿はあぐらをかいた。神野を抱いたままでは、それ以外の座り方は少々辛い。
「はがれないんです、こいつ」
 気鬱も忘れて、思わず桓武は大笑いする。
「父上、起きるじゃないですかっ」
「いや、すまん」
 手を振り、桓武は目頭を押さえた。それからようやく、少しきっちりと座りなおす。
「しかしいくらなんでもいかんな、その格好は。仮にもお前は東宮だぞ。それに、又子の部屋での騒ぎは聞いておる。場所柄をわきまえてもらわねば困る」
「そんなことより、父上。お願いがあるのですが」
 そんなこと、にされてしまった。
「何だ」
「こいつ、おれの手許に置けませんか」
 桓武は顎を反らせる。きっぱりと言った。
「無理だな」
「何故です」
「お前は元服を済ませた東宮、神野は元服前の子供だ。立場が違う」
「そんなもの」
 激昂しかけた安殿を、桓武は手でとどめる。
「それにな、まず何よりも、神野は子供だ。まだ母親がいる。まさかお前が代わりをするわけにもゆくまい」
「……」
「神野はしっかりした子だ。心配するな」
 安殿は口をつぐんだ。
 しっかりした子―――確かに、この年とは思えない落ち着いた弟だ。
 だが……
 神野が先刻見せた激情が、安殿には少し引っかかっていた。すがりついて泣きながら、それでも悲しいとも辛いとも一言も言わぬ不思議な拒絶。その正体は、安殿には全く理解できなかった。
 守ってやらねばと思う。しかし、その一方で、自分と異質なものを見るような違和感を、安殿は感じずにはいられなかった。
 そんな息子の気持ちを知ってか知らずか、桓武は満足げに微笑する。
「それにしても、仲のよいことだ。―――おや。目が覚めているのか」
「え?」
 安殿は腕の中を見た。神野は身を竦ませる。
「なんだ、いつから聞いてた」
「おいで、神野」
 桓武が言ったので、安殿はひょいと神野を降ろす。神野は一瞬安殿を見、それから桓武の下に走った。今度は桓武が神野を抱き上げる。
「よしよし」
 桓武は言った。
「兄上は好きか」
「はい」
 澄んだ声で、神野は応える。
「兄上はお前を心配して、手元に置きたいとまで言うておる。そんな兄は、めったにあるものではないぞ」
「はい」
「神野。お前には可哀想だが、高志と共に、また部屋を移らねばならないよ」
 神野は桓武を見上げる。
「藤原吉子(よしこ)夫人のところだ」
「吉子!?」
 素っ頓狂な声を上げたのは、安殿だった。
「伊予の母親でしょう!?」
「そうだな。伊予は確か―――今十四か」
「おれは反対です!あいつは、虫が好かない」
「別に伊予が母親になるわけではないぞ。それにあれは既に元服して、一室を与えてある」
「しかし!」
「控えなさい、安殿。もう決まったことだ」
 ピシリと、桓武は言った。安殿は口をつぐむ。
 兄弟の中では最も近い伊予親王だが、安殿は彼が嫌いだった。
 神野と安殿もあまり似てはいないが、伊予もまた、安殿とは全く違うタイプの人間である。安殿の印象では、「妙に皮肉っぽい言いようが鼻につく、気障で嫌な奴」であった。ある意味では口は達者で頭の回転は早いので、うまさえ合えば会話は弾む。桓武などはむしろ合う方なので、安殿が伊予を嫌う理由がよく判らない。
「その代わり、お前の妃の帯子に、大伴を任せることにしてある」
「大伴を」
「帯子にすれば、姉の子だろう。二年前に旅子が死んだときにはまだ年も十五と若すぎたし、入内したばかりだったゆえ見合わせたが、今度はぜひ養育したい、と望んでいる」
「帯子の奴、おれに無断で……」
 渋い顔をする安殿を、桓武はたしなめる。
「確かに大伴は母親は違うが、お前の弟だぞ。そう狭量なことを言うものではない」
「はあ……。でも、どうして大伴ならよくて、神野は駄目なんですか」
 あまり気は進まない。彼にとって、同母の神野や高志は愛しい存在だったが、それ以外の異母の弟妹については、「無関心」か「虫が好かない」かのどちらかである場合が多かった。
 だが、桓武にしてみれば、安殿のその狭量さを知っているだけに、神野と大伴を―――いや、加えてその場合は高志もだ―――をそろって安殿に任せるのは、いくらなんでも大伴が哀れである。しかも、同母の兄弟とばかり結びつきを強める安殿の性向は、いずれ多くの人間の頂点に立つべき東宮としては、あまり好ましくないものだった。
「だから、母親代わりをするのは誰だと思っておるのだ?少しは他の弟妹のことも、自分の妻のことも思いやってやれ」
「おれは十六歳で四歳の子持ちですか」
「弟だというのに。まあ、妻が養育するとなると、子と似たようなものかな」
「高津は、どうするのですか」
 神野が初めて問う。
「あれは田村麻呂が望んでおるので、一旦里に返す。―――三〜四年もすれば裳着だし、少々考えもある」
「考え?」
 眉をひそめる安殿に、
「まあ、少し待て」
と桓武は言った。
 自分が関与できる余地など全くないことが判った安殿は、一息ついてから言った。
「判りました、父上」
「主上と呼べと、いつも言っておるのだがね。それに、『おれ』と言うのもそろそろやめておけ。自覚を持て」
「はい、主上」
 一応神妙に、安殿は頭を下げる。神野は再び、兄の下へ走った。安殿は弟の頭をくしゃりと撫でる。
「では、これで失礼致します」
「ん」

          ☆

 不幸は、友達を連れてやってくるのかもしれない。
 二ヶ月がすぎ、涼風が吹き始める頃、ついに桓武が最も恐れていたことが起こった。
 安殿が、病の床についたのである。

          ☆

 報告を受けた桓武は、半狂乱になった。
「まさか痘ではないだろうなっ!」
「いえ。しかし、食事を召し上がらず、少し召し上がってもすぐに下してしまわれ……」
「すぐに祈祷師を呼べ!」
 ただちに数十人の祈祷師が集められ、治癒のための祈祷が開始された。しかし病状は一進一退を繰り返し、一向に回復しなかった。
 だが。
 安殿の病は、季節の変わり目によくある身体の変調、一種の風邪のようなものだった。単なる食欲減退と、消化不良に過ぎない。
 しかし、桓武はそうは考えられなくなっていた。桓武ばかりではない。宮中、いや、都中の人間が、口々に「早良親王の祟り」だと噂した。祈祷が行われていることが、それに拍車をかけた。そして、それが皮肉なことに、安殿にとって、最も大きな打撃となったのである。
 考えてみれば、容易に判ることであろう。