『ココロの距離』幕間集
『桜、夕立ち、若葉の頃』
「あれ……沢辺(さわべ)さん?」
誰もいないと思いながら入った教室に人の姿を見つけて、彩乃(あやの)は驚く。
委員会の後で、辞書を忘れたことに気づいて引き返してきた1年3組の教室。窓際の席でノートを広げていたのは、同じ班の沢辺奈央子(なおこ)だった。
一瞬、彼女は居残り組だったっけと考えたけど、そんなはずはない。英語の小テストの補習は別の教室だし、第一、先生が発表した10点満点者の中に、彼女の名前はちゃんとあった。
こちらが開けたドアの音で振り返った奈央子は、目を丸くした後、なぜか照れくさそうに笑う。
「あ、瀬尾(せお)さん。どうしたの?」
「忘れ物があったから。沢辺さんはなんで?」
「うん、ちょっと……人待ちなんだけど」
と彼女が言いよどんだ時、足音が廊下からこちらに向かってくる。彩乃が振り返ると同時に走り込んできたのは、これまた同じクラスの男子。
「うあーやっと終わった、帰ろー」
「その前に、瀬尾さんに謝ったらね」
「え?」
そこで初めて、入口と黒板の間に立っている彩乃に気づいたという顔をして、相手はこちらを見る。寸前で止まったからよかったものの、あのまま勢いよく駆け込んできていたら確実にぶつかっていただろう。実際、今の互いの距離は1メートルも空いていなかった。
彩乃は女子の中でもやや小柄で、150センチに届かない程度。対して相手は頭1つ分以上背が高くて、思いきり見上げないと顔が見えない。その顔に浮かぶのは、どこまでもきょとんとした表情。
「……えっと、瀬尾さんてあんた?」
「同じクラスでしょうが、わたしと同じ班の」
いつの間にか、沢辺奈央子が近くまで来ていた。すっかり帰り支度をすませた格好で、相手の隣に立ち、耳を引っ張る。いてて、と悲鳴を上げた男子の名前は確か羽村(はむら)……下の名前は何だったか。
「あのねえ柊(しゅう)、その物覚えの悪さもうちょっとなんとかしようと思わないの。2週間も経つのにクラスメイトの顔がわからないなんて失礼でしょ」
「えーだってー苦手なんだよう、そういうの」
「だから努力しなさいって言ってんの。だいたい、なんでわたしがいちいち、あんたの帰りを待ってなきゃなんないのよ。卒業まで続けるつもり?」
「そんなつもりじゃないけど」
「なら、いいかげん帰り道ぐらい覚えてよね。わたしだって暇なわけじゃないんだから——あ」
はっとした表情で奈央子が振り向く。口を挟めずにただぽかんとしていた彩乃に、一転して慌てた様子で釈明した。
「ごめんね、びっくりしたでしょ。こいつ周りちゃんと見てないから」
「……ううん、別に、大丈夫だったし」
なんだか要領を得ていない言い方になっているのはわかっていたが、すぐには落ち着きを取り戻せそうになかった。それぐらい、目の前の二人のやり取りが意外だったのだ。
同じ行動班とはいえ、知り合って日の浅い奈央子とは通りいっぺんの会話しかしたことがない。知る限りの彼女はいつも、暗くはないが落ち着いた言動の優等生であった。今みたいな、聞きようによってはきつい物言いは誰に対しても、おそらくは小学校の友人と思われる相手にも、してはいなかった。
そして羽村柊はといえば、クラスで一番背が高く顔立ちもそこそこ整っていて、男子の中では少々目立つ存在だった。反面、誰よりも小学生っぽさが抜けきらない感じの、不思議な印象の持ち主である。
この二人が、今みたいな口をきき合っているところは見たことがなかった。もちろん、彼らの行動を四六時中追っていたりはしていないが、これほど気の置けない間柄であるとは予想外で、だからこんなふうに聞きたくなったのだ。
「ひょっとして、付き合ってるの?」
奈央子は彩乃から見ても可愛いし背も高い方だから、並んでいるとお似合いだとは思う。驚きが去らない口調でおずおずと尋ねると、二人はそろって目を見開いて絶句してから、
「まさか。ただの幼なじみ」
同じく、見事なほど声をそろえて言った。その、あまりの息の合い方にまたぽかんとしていると、
「なあ、なんか困ってんじゃん瀬尾さん。おまえがごちゃごちゃ言うからじゃねーの」
「誰のせいだと思ってんの」
そして、耳を引っ張り悲鳴が上がる一連が繰り返される。思わず吹き出してしまった。
「ほら、笑われてるじゃないの。まったく」
と奈央子ににらみつけられて、柊は長い体を縮めてあからさまにしゅんとした表情。その様子は確かに、付き合っているというよりは、姉弟に近いものがあった。面白い二人だと思い、同時に、ちょっと安心する。
「もういい、ともかく帰ろ。……ほんとごめんね、瀬尾さん。うるさくしちゃって。じゃあまた明日」
「あっ、ちょっと待って」
作品名:『ココロの距離』幕間集 作家名:まつやちかこ