30%溶液
目の前に置かれたグラスの中身は得体が知れなかった。
「何すか、これ」
「ビールありませんかって聞いたでしょ、だから」
「……ビール何%ぐらいなんです」
「3割ぐらいかなぁ。あとは焼酎とコーラとウーロン茶とー、つくねとマグロの刺身と七味唐辛子と」
「あの、100%のビールが欲しいんすけど」
「みんな飲んじゃった。1本だけ頼むのも面倒だしぃ、これでいいでしょ」
グラスを持ってきた4年の先輩女子はすっかりできあがった体で、けらけらと笑う。気づくと周りは皆、自分がどう対応するかに注目していた。
グラスの中身の不可解さと向けられる視線の多さにひるんでいると、誰かが「元幹部の作った酒が飲めないのかー」と叫んだ。他の部員がそれに呼応し、手拍子と掛け声が始まる。完全に引っ込みのつかない、引っ込みたくても無理な状況に陥った。
非常に気は進まないが、覚悟してグラスを手に取る。掛け声が大きさを増す中、息を止めて一気に中身をあおった。
飲み干した瞬間、個室を埋めつくす割れんばかりの拍手。耳が痛くなり、次いで目まいと胸焼けを覚えた。
「……すいません、ちょっと」
おーどこ行く勇者ー強者ー物好きー、と訳のわからない声を背によろよろと個室の外へ向かう。店の奥にあるお手洗いに駆け込み、ある程度気分が回復してから外に出て初めて、手前の洗面スペースに誰かいることに気づいた。他の居酒屋とは違い、この店の洗面スペースはさしずめ新幹線のごとく、通路に対して少し奥まった作りになっている。
「あれ、どうしたの坂崎」
吸っていたタバコを携帯灰皿でもみ消しながら振り返ったのは、同じく先輩で3年の、森屋英里子。ぎくりとする。いつの間に抜け出していたのだろう。
「青い顔しちゃって。なんか変なもん飲んだ?」
説明すると、英里子は納得と同情の混ざった顔で「あー」とうなずく。
「あれか。30%溶液」
追い出しコンパでは恒例の飲み物で、元幹部の4年がその時の気分でブレンドを決めるのだという。ただしビールが3割程度なのは原則で、だから「30%溶液」。
「回されちゃったんだ。断ればよかったのに——ってそうもいかないか、雰囲気的に。で、全部飲んだの」
「はあ」
律儀だねえ、と英里子は笑った。肩の動きに合わせて長い髪が揺れる。
「そういう先輩は何してんすか」
「ん、見ての通り。こっそり喫煙」
言いながら、ふたを閉めた携帯灰皿を軽く振る。灰皿を挟む指はなめらかに白い。
「今、4年も3年もタバコ吸う人ほとんどいないでしょ。だから肩身が狭くって。吸わない人ってけっこう煙に敏感だしね」
「あ、おれ吸わないけど平気っすよ。親がヘビースモーカーだから煙も匂いも慣れてます」
「へえ?」
意外そうに応えて、洗面台で口をゆすぐ英里子。2回水を吐き出した後で、何かに気づいたような目で鏡をのぞき込んでいる。ペーパータオルで口を拭ってからこちらを振り返り、ちょいちょいと手招きをした。
応じて近づいた途端、狭い洗面スペースに引っ張り込まれ、目隠しのカーテンを引かれる。
「じゃあさ、これも平気?」
言うなり、英里子はこちらの肩を支えに背伸びをして、唇を重ねてきた。重ねるだけにとどまらず、舌をするりと潜り込ませ、絡めてくる。
アルコールの匂いと甘い味に混じるタバコの苦味。これも30%ぐらいかな、なんてつまらないことを考えた。強く押しつけられた唇と、胸の柔らかさ。
すべてが数秒で、重なった時と同じように、前触れなく離れる。
「不味い?」
尋ねる英里子の口調は意外に真剣で、だから自分も真面目に答えた。
「いえ、全然。まったく」
探るように見つめていた目がやわらぎ、口の端が持ち上がる。ほんとに律儀だね、とつぶやくような声は、どこか複雑そうにも聞こえる。
そういえばこの人は前の部長と付き合っていたんだったと思う。ただし先月まで。別れたらしいと耳にした時、ちょっとだけだが期待と可能性を感じたことを思い出した。前部長がタバコを吸わない人であったことも。
なんだろう、部長の代わり? 腹いせ? 当てつけ?
まあ何でもいいや、とかすかな複雑さを隅に追いやって結論づける。どうせこれきりなのだし、一度でも英里子とキスできたのなら。
戻ろうか、とカーテンを開けながら英里子が背を向けたままで言う。
「そろそろ解散だろうしね」
「ですね」
飲み放題3時間コースの終了時間が迫っていた。あと10分もない。
先に個室の方向へ行きかけた英里子の足が、2・3歩でふいに止まる。唐突に振り返った彼女とあやうくぶつかりそうになった。
ねえ坂崎、とささやくような小声で、
「解散の後でまともなビール飲み直しに行かない、一緒に」
そう言った英里子の笑みはどこか挑戦的で、それゆえにいっそう艶かしく、魅力的に見えた。