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初恋

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ねぇ、あたしたちは大人になるんだよ。
 向かい側で机に突っ伏す綺麗な彼女は、くぐもった声でそういった。
いつまでもネバーランドの住人なんかじゃないんだ。
暖房も止められて乾燥した夕暮れの教室の中で、彼女の声は加湿器の煙みたいに空気を湿らせる。彼女の声が、好きだった。
 だんだん冬になろうとしているこの時期、クラスの大半は予備校に通いだして、ホームルームが終わるとすぐに教室を出て行く。もちろん私と、目の前の彼女だって受験生だから、いつもは同じようにしている。
けれど今日は彼女の、三年間ずっと仲良くしてきたえっちゃんの様子がおかしかった。
ばたばたと教室を出て行くクラスメートに笑って手を振るところまではいつもと同じだったけれど、教室に私以外の人間がいなくなったとたん、机に倒れこんで、そのまま動こうとしなかったのだ。
カナ、ちょっと付き合って。夕日に照らされた彼女の色素の薄い髪は、きらきら光っていた。
 えっちゃんは、綺麗な女の子。少し茶色がかった髪をゆるく巻いて、薄いリップで唇は桜色。それ以外に特に化粧はしていないし、美人な顔というわけじゃない。
 だけど、きらきらしててはきはきしてて、とても綺麗な女の子。
「カナ、模試どうだった?」
「最悪」
「日本史?」
「うん」
「あたし、英語ぼろぼろ」
「えっちゃんは、日本語もおかしいときあるから」
「えぇー」
 うへへ、と怪獣の子供が笑うようにえっちゃんが笑う。震える制服の背中に髪が一本くっついているのを、私は見ないふりをした。そんなことしたって意味はないって、わかっているのに。
 怪獣もどきの彼女はひとしきり背中を震わせて、また、あたしたちは大人になるんだよね、と呟いた。
「大人に、なるね」
「あたしたちはまだ、こどもなんだよね」
「うん」
「この先いろんなことをして、いろんなことに困って、いろんな人に出会って、それで死ぬんだよね」
「そう、だね」
「人生って、長くて、大変なんだよね」
 うへへ、と今度は笑わない。彼女が何をいいたいか、私はわかっているはずだった。それなのに、かけるべき言葉を私は声に出せないでいる。(だってそんなの、悲しすぎる)
「そんな大変さに比べたらさ、今のあたしなんて全然ましなんだよ。
 あたしはあたしとずっと一緒にいなきゃいけないけど、他の人とは、会ったり別れたりするんだ」
「えっちゃん」
「ねぇ、カナ、恋なんてあってもなくても同じなんだよ」
「……」
「恋なんてしなくても生きていけるんだよね。取るに足らない、くだらないものなんだよね」
 背中を震わすかわりに、彼女は声を震わせた。
 綺麗なえっちゃんは、同じように綺麗な恋をして、そして似合わないくらい醜くそれを失った。
 彼を追いかける彼女の瞳は太陽の光を反射して宝石みたいに輝いて、その輝きに照らされた彼も、とても特別に見えた。そんな風に世界は輝くことができるんだ、と、私はまるで違う世界の写真を見るように感じた。
 彼女は恋をしていた。どうしようもなく恋をしていた。

 なのに。

 知っているんだ。
 彼女が今も顔を上げないのは、寒いからでも具合が悪いからでも眠いからでもなく、ただ、私を視界に入れたくないからだということを。そしてここ三日間、そう、ちょうどきっちり三日間だ、それとなく私を避けていた彼女が、わざわざ私を呼んだということは、私に、用があるということも。
 彼女はずっと、私の憧れだった。彼女は可愛くて明るくて、いやみもないからたくさんの人に好かれていた。
 自分の世界に閉じこもりがちで、敵を作ることばっかりが得意な私とはまったく違っていたんだ。だけど彼女が言ったんだ。(みんなで大騒ぎするのも悪くないけど、疲れるんだよね)(え?)(こうやって笹本さんとしゃべってると、ほっとする)(私、暗いだけだよ。田中さん、しゃべってると、きっとそのうち嫌気がさすよ)(そんなことないよ。それと、えっちゃんでいいよ。みんなそうやって呼んでるし)(あぁ、うん)(わたしも笹本さんのこと、カナって呼ぶから。佳奈子だよね、名前)(う、うん)
 気がついたら、私はいつも彼女と一緒にいた。いつでも明るい彼女が、私と二人きりになったときにだけ、私にだけ弱気を見せるのがたまらなく嬉しかった。それは優越感だったかもしれない。自分より人気のある女の子が、私を頼りにしてる。そんな歪んだ気持ちがなかったといえば嘘だった。
 だけど、私がえっちゃんを好きなのは本当だった。綺麗な彼女が、私の誇りだ。
 なのにどうしてこんなことになったんだろう。
 眩しいくらい輝くえっちゃんは太陽で、その光に照らされた彼は月だった。そして、私は、その月にどうしようもなく惹かれてしまった。太陽の光に照らされていたからかもしれない。
 気がついたら私は月に焦がれていた。まるで、月に降り立つことを夢にしている地球の人たちみたいに。
 実際に、どの世界の人も、実際輝いている太陽よりも、その光を反射している月に目を奪われるんだ。アポロ11号は月に行ったけれど、太陽に行こうとは思わなかった。そんなことしたら、光の強さに目がつぶれるって、わかってるから。
「カナは最近、綺麗になったねぇ」
「そんなことないよ」
「綺麗になったよ。びっくりしちゃったもん」
 カナは可愛いなぁ、なんて、そんなこと、えっちゃんしか言わないんだよ。
「ねぇ、カナ、恋なんてくだらないし、いらないものだって言って」
「えっちゃん、」
「カナが恋をしてるの知ってるよ。初めての恋をして、きらきらしてるのわかってる」
「……うん」
「だからカナに言ってほしいんだよ。恋なんて、なくても生きていけるんだって」
 えっちゃんは大好きな彼に告白したけれど、その気持ちが何か実を結ぶことはなかった。女子高生のネットワークは凄まじい。ここ最近彼女と会話のなかった私の耳にも、事柄の顛末は入ってきた。えっちゃんは告白をした。けれどふられた。理由は、
「彼、ね、カナのことがすきなんだってさ」
 彼女は、丸めていた背中を伸ばして、そういった。私の目を真っ直ぐ見て、真っ直ぐな声で言った。そしてまたふにゃりと表情を崩して、恋なんてくだらないって、言ってよ、と笑った。
 風に打たれてガラスの向こうの木の葉が激しく揺れて、散る。靴下とスカートの隙間の、ちょうど肌が出ているあたりが冷たかったけれど、冷えた手でさすったところで、余計に寒いだけだった。
作品名:初恋 作家名:羊子