すれちがい
犬山健介
「どうしてこんなのを拾ってきたんだ」
支店長の笠山は、納得がいかんというように眉をしかめて机の横に立っている延子をじろりとにらんだ。
延子は、なんと言っていいかわからないような顔をしてまごまごしていた。
どうも話が違うような気がした慎一は、椅子に坐ったまま組んでいた脚を、ゆっくりほどいて言った。
「どうも、お邪魔だったようですから、失礼しますよ。それから、この方をあんまり責めないで。わたしが無理して頼んだんですから」
「まあ、待ちたまえ」
慎一がもう、通路へ出てしまった後になって、笠山の呼び止めるだみ声が聞こえた。
別にこのまま立ち去ってもいいようなものだったが、延子の立場を考えて、彼は再び部屋に入った。
すると笠山は、窓際に立って両手を後ろに組み、しばらく何も言わずに、ブラインドの隙間から外の景色をながめだした。
恰幅のいい、五十がらみの紳士だが、少し背中の曲がった後ろ姿は、意外なほどさびしく見える。
ところで延子のほうは、さぞかし落ち込んでいるだろうと思いきや、このとき、上役の目を盗むようにそっと慎一のほうへ首をねじって、ベロを出した。
「じゃ、こうしよう」
慎一のほうへ背中を向けたままで、笠山は言った。
「ためしに一ヶ月ほど、きみにここではたらいてもらう。といっても、外回り専門だがね。それで満足のいく結果が出せるようだったら、引き続き、ここにいてもらう」
「つまり、試用期間てわけですな」
慎一は延子のほうに、片手でVサインを示しながら、軽い調子で言った。
「しかし一ヶ月というのは、ちょっと短すぎやしませんかね。いや、こちらとしては大歓迎ですが、たった一ヶ月で、わたしという人間がわかっていただけるでしょうか」
「きみのことなら、もう、わかりすぎるほどわかってる」
笠山はやはり向こうを向いたままで言った。
慎一は、ため息ついでに、「ほう」と声を出した。
「しかし、お互い初対面ですぜ。もっとも、わたしのほうでも、あなたのことはもう、すっかりわかったような気がしますがね」
「そうだろう、きみだって、そうだろう」
笠山は急に勢いづいて、くるりとこちらに向き直り、にこにこしながら言った。
「だからそうなんだよ。篠塚君がきみを拾って、ここへ連れてきた。つまり、それがきみという人間のすべてだ」
「へえ」
こいつ、頭がいかれてるんじゃないかと思ったが、慎一は黙っていた。
黙っていさえすれば、たった一ヶ月で、正社員になれるのだ。
延子は机のわきに立って下を向いたまま、いつのまにか顔が真っ赤になっている。
「しかしね」
笠山はポケットに両手を突っ込んで、慎一のほうへ歩いてきた。
慎一はこういうきざなポーズを見ると胸が悪くなるので、わざとよそのほうを向いていたが、笠山が延子のすぐ後ろを通るときに、一瞬片手がポケットからちらっとのぞいたのだけは、目の端でしっかり見ていた。
それで、思わずニヤリとしてしまった。
笠山は何か床に落としたように、そのあたりをきょろきょろしながら近づいてきた。
「しかし、人間はわかるが、能力はわからん。使ってみないとな。もっとも、篠塚君をたぶらかすような男が、ただの無能人間とは、わしだって思っとりゃせんよ。あくまでもこれは形式だ。よほどのことがない限り、一ヶ月後にはきみは晴れて我が社の社員になる。もちろん、臨時社員としてのスタートではあるがね!」
「話がちがうんじゃないの?」
肩を並べてエレベーターに乗り込むと、慎一はドアが閉まるのを待って延子に聞いた。
「だって、臨時とは聞いていなかったぜ。最初から正社員になれると思ったから、ついてきたのに」
「あなたって、ほんとに身勝手な人ね」
延子はいつのまにか、ひどくすねた顔をしていた。それでいて、エレベーターのなかにふたりしかいないことをいいことに、慎一の胸に肩を寄せてきた。
「これでも、たいへんだったんだから。そう簡単に支店長に会えるものじゃないのよ。しかも、無試験で」
「だったら、たいへんついでに、正社員にしてくれ。最初から正社員だ。これだけは譲るつもりはないからね。でなきゃ、きみと結婚できないじゃないか!」
「あら、いつそんな話があったかしら」
そのときドアが開いて、中年男と中年女がさえない顔をして仲良くぬっと現れた。
延子はそこで別れるつもりらしかったが、慎一はかまわず彼女の手を引っぱった。
「まだ、聞きたいことがあるんだ。いや、ほんとはどうでもいいことなんだけど、ところで、おれは何をすりゃいいんだ? この会社は、なにしてる会社なの?」
「あなたらしいわね」
延子はまわりの目を気にしながら、押さえつけたような微笑を顔に浮かべた。
「おあいにく様、わたしだって知らないのよ。だって、あなた、なんにもできないでしょ。資格もないし、大学も中退だし、五年もひとりでごろごろ、なにしてたのか知らないけど、最初にそれがわかってたら、わたしもあなたを支店長に紹介することはなかったでしょうね」
「うそつき」
「なに言ってるのよ、あなたがわたしをだましたんじゃないの」
「ことわっとくけど、たぶらかしたのはきみだからな。ぼくじゃないよ。これまできみは、とっても謎めいて見えてたけど、あの支店長を見て、やっとわかったよ、きみという人間がね。いや、女といったほうがいいかな」
じーんと熱くなるほっぺたに手をあてて、慎一はぶらりと外に出た。