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ビール

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あぁ、どうせなら死ぬ前に一度でいいから浴びるように酒を飲みたいなぁ! なんつって夜半の路傍に出て一人絶叫しながら上の通りに酒を浴びてみるのだけれど、俺はまたしても言葉のあやってやつに騙された。瓶ビールの栓を弾き飛ばして頭の少し上のあたりで逆さにすると愉快なことに金色に輝く液体、つまりビールが俺の脳天に勢いよく降りかかるのだけれど、そういった風な飲み方では大口を開いたところで滝のように流れ落ちるビールの流入は難しく、顔面の至る穴に染み入ったりするし、うまく口に流しこめたとしても許容量を上回るビールが口中で溢れて零れ出る、もしくは気管に入って噎せてしまうなどのトラブルがあり、だいたいは飲めず仕舞いで終わる。浴びるように酒を飲むというのは大酒飲みである俺の長年抱いてきた夢であったが、いざやってみると難しいことこの上ない。俺はそうして今日も妙な思い付きからかかる失敗をして人生の黒星を着実に増やしていた。大人だって人間なんだからいろいろある。夜半の路傍で一人絶叫し上着をぐずぐずに濡らしたりするし、夜風が染みて肩が震えたりするし、台車を引いて歩く豆腐屋もそれを見て笑ったりする。
「ふふっ。あんた、そんな景気のいいツラしてどうしたの? 阪神は開幕十連敗だってのにさ」
 豆腐屋の若い娘が話しかけてきた。しかしよくよく考えてみればこんな鈴虫も泣き喚く往来にて小型のラッパを携え豆腐屋の台車を引いて通るなど、はっ、怪しくおかしな娘だ。俺は幻影でも見ているのかな、丁度酔いも回ってきた頃だしそういう事も起こりうる。
「そうだね。景気はいいよ。俺はついさっき凄まじい発見をしたんだ」
「発見?」
「浴びるように酒を飲むと、少しの量しか口に入らないから結果的に損をした感じになるぜ」
「……で?」
「それが発見だよ」
「発見?」
「そうだ、凄まじい発見」
「そんなの、少しアタマを捻ったら子供にだって分かる事じゃないの? 頭大丈夫?」
「えっ」
 豆腐屋の娘は俺の凄まじい発見をあろうことか一笑に付し、たったワンセンテンスで軽やかに受け流したばかりか言葉のジョルト・カウンターをお見舞いしてきた。宮田一郎の魂を受け継いだ強かな娘と見受けるが俺も幕ノ内一歩ゆずりのタフさがあるから多少思考の連続性を欠いていても意地を張って言い返したりするし、俺のそういった強情な部分が自身の幼稚さを際立たせる一因であるのは素直に認めたいが省みることは絶対にしない。子供の喧嘩は反省して終わりでも大人の喧嘩はそうもいかないのだ。
「だが、浴びるように酒を飲みたい、と思い強く願う人間は絶滅しない。それが儚い絵空事だと知らずに奴らは妄信をやめない、狂気が蔓延していやがる。誰かが助けてやらねば人類はすべて死ぬぞ。あっという間に全滅だ!」
「ふふっ」
 娘は笑うだけだった。豆腐屋の荷台には巨大なクーラーボックスが積んであり、その中にはきっとよく冷えた奴さんが眠っているのだろうな、と思うと急にビールが飲みたくなり、俺は足元に転がった空の瓶、否、空になった瓶、否、俺が空にした瓶を見つめ、どうしようもなく鬱屈とした気分になった。
「じゃあ、あたし、手伝うよ」
 娘が急に言った。
「人類助けるの、夢だったからさ」
 迷子の婆さんにつかまって、もしもし、駅はどちらの方角かしら? と訊かれ、ちょうどよかった、私も駅まで行く途中だったから一緒に行きましょう、なんて親切に応対するような調子で娘は言った。俺は別に二人で世界を救済しましょうなどと誘った覚えはないのだが、俺が冷奴の映像を脳裏に浮かべている間にそういう話の流れになっていたようなので、遊びがてら付き合ってみるのも一興かな、などと思って娘と一緒に路傍の酔っ払いどもの脳天から瓶ビールをかけてまわって浴びるように飲むという愚行がいかに浅はかなるものか教えてやろう、などと企てて盛り上がったが、瓶ビールを購入するだけの資金がそもそも俺たちにはなかったので妄想だけで完結した。それでもなんとなく楽しかったから俺はいいや。
 やがて朝の光が往来を照らし始めると、娘はじゃあねと言って家へ帰ってしまった。
 あんなに楽しそうに酒を飲んでいた連中も、朝が来ればまた仕事だとか社会ってやつに迎合して頑固な油汚れみたいなストレスの塊を心の内に溜め込むんだろう。でも心配ない、俺たちには正義の豆腐屋がついているからどんなにつらい事があっても決して死にはしないのだ。
「救われたな、人類」
 俺も人類でよかったな、と心の底から思った。
作品名:ビール 作家名:sisterist