桜の森
誰かがむき出しの道に横たわっておりました。森の中でありました。満開の桜の森が、雲のようにどこまでも続いています。風一つ吹かないのか、これだけ花が満開なのに、花弁が一片も落ちては参りません。凍てついたような、桜の森の景色でありました。
そんな中に横たわっているその方も、それに相応しくぴくりとも動きません。目をかっと見開いて、四肢を投げ出して横たわっていらっしゃいました。
私はその顔を覗き込もうと近づいてゆきました。ふと、何の切っ掛けでしょう、風もないのにひらひらと、薄い色の花弁が一枚、花から離れて落ちてきました。くるくると舞い踊りながら、それは、横たわるその見開かれた瞳のなかに入っていきました。けれどその方は瞬き一つなさいません。ああ死んでいるのだなと、妙に納得させられました。
けれど近寄っていくと、その方はむくりと起き上がりました。やはり死人のような、ぎこちない動きでありました。
あまりこちらに来ないでください。
片方の瞳に薄い花弁を入れたままに、その方は透き通った声で言いました。
私はこの通り鬼なのです。
言われてよくよく見ると、その姿はなるほど鬼でありました。にゅうっと突き出た角といい、口を裂くような牙といい、恐ろしげな鬼でありました。
そんなところで何をしているのです?
私は問い掛けました。左目に花びらが入っていますよと付け加えて。
人を待っているのです。
鬼はそっと瞳に入った花弁を払いながら答えました。その指もやはり、鋭い爪の生えた恐ろしげな鬼の指でした。
けれど、もういらしたようです。
鬼はすっくと立ち上がりました。その姿は恐ろしげなのに、なぜだかやはり、死人のようでした。死人のように寂しげでした。
昔。
鬼はぽつりと語りました。
大昔に、指を絡めて約束いたしました。
その方は特別な方で、人を食らう身の私を憤っておられました。哀れんでもおられました。だから約束いたしました。
その方を食べたら、私は二度と、無辜の民を食さぬよう。
約束を、と呟いて掲げてみせた右の手は、その手だけは、人の手でありました。それは約束の証なのでしょう。薄桃色の、かわゆらしい人の手でありました。
貴方のことです。
そして鬼は、こちらを見てそういいました。
私が、食べられたというのですか。貴方に?
桜の木は相変わらず、自ら輝くように咲き誇っています。かわらず風は吹きません。動くものといえば、私と、鬼の瞳だけ。他は何も動かず、凍ったように静かでありました。鬼は笑いもせずに答えます。
貴方はもう、生きていないではありませんか。
ひやり、といたしました。言われてみればなるほどそんな気もいたします。私は、人ではありません。それを模してはいるけれど、そもそも生物でもない。
けれど残念なことに、私は約束を思い出すことはできませんでした。
そんな私を強い瞳でじっと見て、鬼は、分かりましたと頷きました。
私とて、二度もあなたを食べたくはありません。
こうなった以上、それも仕方のないことです。
けれど可能性がないわけではないのです。
お逃げなさい。なるべく急いで、どうかこの森を抜けてください。
さあ、早く!
ほとんど恫喝するようなその声に弾かれたように、私は走りはじめました。相変わらず風はありません。けれどいつしか桜が散りはじめていました。狂ったように散りだした桜のなか、こちらを飲まんと迫るような桜の木の下を、私は必死に走りました。
けれど、桜とは、こんなに紅いものでしたでしょうか?目の前をひらひらと過ぎてゆく花弁は白いような淡い色です。けれど頭上に雲のように重なる桜、それはまるで、血肉のように赤色でした。
いつまでも続くような桜の中を、転がるように駆けてゆきます。けれど、いつまでたっても、桜の雲は途切れることがありません。そして後ろからも、追ってくる気配がないのです。
私はとうとう、足を止めて振り向きました。
鬼はまだ、すぐそこに立っていました。とても悲しそうな顔をして。
やはり、無駄なのですね。
その言葉が聞こえた瞬間、私は地面に引き倒されておりました。桜が散っています。絶え間なく、まるで嵐のよう。
頬に何か、白いかけらが当たりました。塩でした。鬼が、泣いているのです。乾ききったその白い結晶こそ、鬼が約束を守って、もう何百年と何も口にしていない証でした。私は何か口を開きかけましたが、何も言うことはできませんでした。約束も思い出せない私に、何を言うことができたでしょう?ただ黙って瞳をあわせることしか、できることはないのです。
けれど鬼は瞳を閉じました。涙が止まり、代わりにひらひらと白い花弁がその頬を優しげに撫でてゆきました。桜の花はあっという間に視界を覆い尽くし、すぐそこにあるはずの鬼の顔さえ見えなくなってしまいました。
次に会うときも、あなたは私を忘れているのでしょうね。
ぽつりとそんな言葉が耳に落ちて参りました。桜の花に目を塞がれて、それでも私は目を開いておりました。
けれど後は、ただもう--
紅く。