レイニーデイ・ブルー
雨はつよく、私は大きな水たまりを二つ、越えることができずにサンダルを履いた足を泥水に浸して歩いた。脇を通り抜ける車のタイヤが跳ね上げる水は運良くかからず、けれど風の強さから、左腕はしとどに濡れた。
投票所になっている中学校の前を通るときに、迷い犬に出会った。
何か思案する様な表情をして、ゆったりと歩いていた。歩くたびに、濡れそぼって束になった長い毛の先から雫が落ちるのが見えた。
私はそっと横に並んで、傘をさしかけた。可哀想だと思ったわけではなくて、ただなんとなく、そうした方が良いような気がした。
彼だか彼女だかわからないが、ともかく“彼”は立ち止まり、怪訝そうな顔をして私を見上げた。「濡れるから。」口の中で弁解の言葉を呟いた。“彼”は嫌がりもせず、またゆったりと歩き始めた。
“彼”は何処へ向かっているのだろう、黙々と歩く。首輪に付いたドッグタグがちゃりん、と音を立てる。
私達はそのまま暫く、並んで歩いた。雨の中投票所に向かう人々とすれ違ったけれど、足早に歩く彼らの中に私と“彼”に注意を払う者は居なかった。
不意に、私の鞄が震える。
携帯電話から、母親の声が聞こえた。帰りを促す言葉に、曖昧に返事をする。
急に立ち止まった私をきょとんとした顔で見上げて、“彼”もまた立ち止まった。携帯電話を折りたたむ音も、雨の音にまぎれて聞こえない。
「かえらなくちゃ、いけないの」
少し多きめの声で言った。“彼”はじっと私を見ている。周りに人はいなかった。私の傘を叩く雨の音だけがBGMだった。
“彼”は、黒々と濡れた目で私を見ていた。
ばしゃん。
通りがかった車が泥水をはねあげた。それを合図に、私は駆け出した。逃げ出した。
私は“彼”の首にドッグタグがあるのを知っていた。住所を確認して、電話をすればよかったことも解っていた。
けれど、“彼”のみちゆきを邪魔してはならないと思った。いいえ、それは言訳だ。私はただ逃げ出した。降りしきる雨の中をまるで目的を持って進んでいる“彼”自体も、それに関わりそうになったことも、何故だか空恐ろしい気がしていた。
叩きつける雨の中、私は傘を翳して走った。
一度だけ振り返ると、“彼”は私に背を向けて、歩き始めていた。
ひとりきりの みちゆき。
雨はまだ、降り続いている。
作品名:レイニーデイ・ブルー 作家名:ナツ