melody♪一話
私が通っているピアノ教室はほとんどの生徒が音大志望だったり、プロを目指していて、おそらく私だけが、ピアノと自分の将来とを全く絡めずに考えていた。だから私はそのピアノ教室では完全に浮いていた。なかなか生徒を取らない先生が、私みたいな道楽でピアノをしている人間を生徒としてとったのは初めてのことらしく、女の子の中にはあることないことうわさしている人もいたらしい。
らしい、としたのは私が直接云われたわけではなく、ある男の子からきいたからだ。その男の子は次郎くんといって、横浜からわざわざ週一回レッスンを受けに来ている、先生の特にお気に入りの生徒の中の一人だった。もっとも横浜から通うなんてのはまだまだ序の口で、中には静岡や名古屋から新幹線で通っている生徒もいた。
私が初めて次郎くんを次郎くんとして認識したのは高校一年の九月だった。
夏がそろそろ終わろうとしていて、夕方になると心地よい風が先生の家を通り抜けた。風は通り抜ける際に、レッスン室にたまっている音を外に連れ出した。次郎くんのピアノは、穏やかだった。どんな激しいものでも、次郎くんが音にあらわすとのんびりした感じになった。先生はそれは個性だけれども、課題でもある、と常々云っていた。次郎くんはやっぱりのんびりした感じで、その先生の言葉を聞くともなしに聞いていた。
けれどその日の次郎くんのピアノは荒れていて、音符がけんかをしていた。時々迷子になっている音が漏れ聞こえてきた。私はレッスン室の隣でアルバムを見ながら、そんな迷子の音を聞いていた。すると突然レッスン室のドアが開いて、次郎くんが出てきた。次郎くんはぽろぽろと涙をこぼしていた。私はいつもちょっとぼんやりした表情の次郎くんしか見たことがなかったのですごく驚いた。驚きのあまり、座っていた椅子から立ち上がってしまった。勢いよく立ち上がったせいで椅子が倒れた。その音に次郎くんは肩を振るわせた。それがお化け怖がる子どもみたいで、ちょっとかわいかった。かわいくて、かわいそうな次郎くんに私はハンカチを差し出した。次郎くんは私が落としたアルバムを見て、次にハンカチを見つめて、それから私の顔を見た。
「使っていいよ」
次郎くんはハンカチを受け取ると涙をぬぐった。その動作さえのんびりしていて、私はかわいいなと思った。次郎くんはそのまま動かなかったので、私はレッスン室に入っていった。外で泣いている次郎くんとは対照的に、先生はにこにこと笑っていた。私は次郎くんについて何も云わなかった。次郎くんは泣いてしまうほどピアノに一生懸命だけれど、私は違う。そんな私には先生と次郎くんの問題に口を出せないと感じたからだ。
私のレッスンはいつものように楽しく終わり、最後に先生と二、三たわいもない話をして教室を後にした。
先生のおうちの玄関を出ると次郎くんがいた。私が出てきたことに気づくと次郎くんは立ち上がった。
「これ、ありがとう」
次郎くんはさっき貸したハンカチを差し出した。その下にはアルバムがあった。
「あと、これ。落としたまんまだったから」
私は大切にしているアルバムを落としたまま忘れてしまった自分の馬鹿さ加減にあきれて、拾ってくれていた次郎くんの優しさに感謝した。
「ありがとう」
私が云うと次郎くんはちょっと笑った。いつも眠たそうな顔をしている次郎くんは、笑うとえくぼができた。
「今まで待っててくれたの?ごめんね」
「・・・別に大丈夫」
「もう帰るの?」
「うん」
会話はあまり続かなかったけれど、私たちはなんとなく一緒にまで歩いた。次郎くんはあまりおしゃべりが得意じゃないら、ぽつぽつと自分の名前とか、今通っている学校、行きたい音大や好きな作曲家の話をした。私は通っている学校と、今日のレッスンについて話した。私が先生と話した内容を口にすると、次郎くんは少し悲しそうな顔をした。
駅の売店で、次郎くんは飴を買ってくれた。お礼と云って渡されたそれはのど飴で、次郎くんはちょっと変わってるなあと私は思った。けれど改札をくぐる際バイバイといって手を振ったその振り方がかわいくて、家に帰ったらのど飴をお父さんと二人で食べようと思った。