物語のはじめかた
テラスから見える市外の景色を、ひそかにエルンストは気に入っていた。けれど多弁でない彼は、それをたれにも語ったことはない。石畳、広がるパラソル、仕合せそうな人々の笑顔。これ以上何が必要だというのだろう?栄えている街が持つべき何もかもを、この旧い街は有していた。
「ホラ、あそこを見てみろ」
共にテラスでお茶を飲んでいた相方――シモンが眼下に広がる風景の一隅を指差す。ゆるりとそちらに目を向けると、なにやら男女が口論しているようだった。女のほうは赤毛で、男のほうは、東洋人であろうか。さらさらの黒髪をショートカットの少女のようにのばしていた。
「昔な、たれかが云ったらしい。男と女が一人ずつ、それだけで物語が始まると」
にやにやと野次馬根性丸出しで笑うシモンに、どう返答して良いのか分からず、ただその横顔を眺めた。
「今に女のほうがバシンとやるぞ。ほら、ほらエルンスト!ぶった!女がやったぞ」
ヒュー、異様に良い音の口笛をシモンが鳴らすと、女のほうがこちらに気づいたようで、きっと睨み付けてきた。そして次の瞬間。ああ、なんてことだ、エルンストは嘆息した。エルンストは生まれてこのかた、そんな下品なポーズをとる女を知らなかった。
「おお、いいじゃんあの子。気が強そうで。しかも可愛い。俺は赤毛のほうが好きだぞ。ブロンドはな、ありがちだし」
自分の髪の毛を一房つまんでシモンが呟く。おそらくこれは独り言なのだろう。そう判断してエルンストは無言を貫いた。
空が高い。太陽は眩しい。少し遠くには海が見えた。この街は港町だ。交易で栄えてきた。始まりは小さな漁村であったと聞く。しかし、そんなのは恐ろしいほど昔の話だ。何百年という、この国の歴史と同じくらいの昔のことなのだ。
「お前はな、きっとああいう女が良いよ。お前を外に連れ出してくれる。こんな気持ちの良い日に、きっとお前を連れてショッピングに出かけてくれるような女だ。そのくらい能天気な女じゃないといけない」
シモンが何を云いたいのか、エルンストにはよく分かった。
「そうだね、きっと、彼女のような天真爛漫な人と共に時間を過ごせたら、素敵だろうな」
「そう思うなら、そうすればいい。能天気、天真爛漫?大いに結構。俺はそういった女なら良く知ってるぞ」
エルンストは返事をしなかった。かわりに、お茶を一口飲んだ。
シモンは良い人だ。エルンストは思う。こんな自分の世話をあれやこれやと焼いてくれて、そう、こんな休日には一緒に朝食をとってくれる。それから自分の知らない話をたくさん、興味を引くように上手に話してくれて、三回に一回くらいは市場に連れ出してくれる。きっと彼がいなければ、自分の世界は今以上に狭いものだっただろう。
けれど。
けれど、とエルンストは同時に思う。
その優しさに報いることが出来ない自分を、心苦しくも思う。
「あの図書館司書?」
エルンストははっと顔をあげる。
「知ってるのかい?」
「ああ、ちょっとな。顔とか、名前までは。ただ、お前はもう、縛られることはないと思うよ」
埃と、少しばかりかびの匂い。彼女に会うとき、全然太陽の匂いなんかしなかった。しんとして、わびしいくらいのおんぼろ図書館に、たった二人きりで、ただ何をするでもなく、本を読んだだけのこと。
「エルンスト。お前は若い。たくさんの人に出会って、物語をはじめるのもアリってことだけは、忘れんなよ」
それだけ云うとシモンはカップを手に室内に引き上げてしまった。
ああ、とエルンストは思う。
彼の後姿から視線を外し、今一度眼下の街並みをみとめる。
このどこにも彼女がいない。その事実だけが、ひっそりとエルンストを傷つけた。
「ただそれだけのことなのに」
そっと発した自分の声があまりにも震えているので、少し、自嘲するように口角をあげた。