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Sie(恋に落ちるまで)

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講義室の戸を開けるとまだ人のいない静謐の中に彼女の細い輪郭が浮かんでいた。おはようございます。走って汗の滲んだ頸筋を撫でながら私が言うと先生はゆったりと身を起こし、おはよう、柔らかい京訛りのことばで私に応えた。
 東京から遥々やってきたこの地で大学に入り、以来私が了解したことといえばただの二つだけで、ひとつ、第五講義室の扉は開けるときひどい音がすること(授業中に出入りするとたいへんな顰蹙を買うということ)、ひとつ、大学の時計は全部が全部、五分か十分か、進んでいるということだった。だから私が朝一番の授業へ時間通りにやってこようとすると、教室に人の姿があることはほとんどなく、ただ長い長い一週間のたったひと齣、水曜日のこの時間だけが扉を開ける私に緊張を与える唯一の授業だった。
 彼女は教室の蛍光灯を自分で点したことはない。いつも朝一番にやってきて、教卓の横のパイプ椅子に腰掛け窓からの明かりだけで私には表題すら読めはしないドイツ語の本を読んでいる。そうしている間に私がやって来てようやく明かりを点ける、それがいつも通りの水曜日だった。
 私は先生の読んでいる本が変わるたびにその表紙をよく眺め、装丁を覚えることを心がけていた。その回転がなかなかにはやいので、先生はあの本を終わりまで、物語であるのならばその結末を知るまで、本当に読み切ったのかどうか疑わしく思うこともあった。
 いつか私も彼女と同じ本を読めるようになるのだろうか。もしそうなれば、先生があの本を最後まで読んだのか、あるいはつまらなくてやめたか、難しくて諦めたか、その真実を知ることが出来るのだろうか。それを思うと私はこの貴重な時間を、呼吸すら忘れるような心地で、過ごさずにはいられなかった。

 私は先生を美しいと思っていた。それは女特有の視点で、「こうなりたい」という憧憬の想いを含んではいたけれど、しかしそれを除いても確かに彼女は美しかった。黒い髪は頸筋を魅せる長さに切り揃えられていて、それらが束ねられたときなどは彼女の形のよい耳殻が姿を現す。狭い耳朶に飾られたピアスを見ると私は「いけないもの」を視てしまったような、焦燥と好奇心の綯い交ぜになったひどく後ろめたい気持ちを抱くのだった。
 麻帆、という。先生の名前。真秀でも麻穂でもない。麻帆という。それを知ったとき、私はある種の感動すら覚えたものだった。だって、麻帆! それはまさしく先生のために用意されたような名前ではないか。彼女は麻帆に違いなかったし、麻帆以外ではあり得なかった。
 麻帆さん。秘事のように先生をそう呼ぶようになったのはその頃からだった。その名を口にするたび私は幸福感に充たされていつも少し震える。彼女が困った顔をするのを知っていて、それでも私は先生を麻帆さんと呼び続けた。
作品名:Sie(恋に落ちるまで) 作家名:宮田