ウェンディの棘
肌寒い午後だった。二人は制服の裾を濡らして、息を潜めて学校から離れようとしている。信号、交差点。横断歩道、花束。
「ねぇ。言わなきゃいけないことがあったんだけど」
曇り空の眼をして彼女が言う。そういえば湿った髪もそんな色をしている。窓に点いた滴が、他の滴を喰って流れていくのを見守ってから、正面を向いた。そういえば僕が窓際でよかったのだろうか。
「だけど、忘れちゃった」 「そう」
彼女の聴神経にはコードが取り付いたままだ。僕は僕で、そう、色々な事象について考えるのに忙しいので、その耳殻が此方に向いていようといまいと関与しない。しないのだ。昔と違って。僕はもう大人になる。これは何の感情でもないだろう。
感触に驚いて見やると、小振りな白い手が僕の手を掴んでいた。何時もは不機嫌に傾きがちのその貌を見れば、その時ばかりは笑んでいた。軋んで傾いて、バスがゆっくりと止まる。さっきのは嘘、と、薄い唇が開いて言う。降りる準備のために彼女は手を離した。
「もう、一緒にいらんないわ」
少しばかりの救いはそれが不可能の意味であったことだ。見れば片方のイヤホンが落ちてゆらゆらと揺れていたが、何の音楽も聞こえなかった。どうという事でもない。やはり置いていかれるのは僕の方で、大人になるのは彼女が先だったということだ。
僕が肯いたのを見てから彼女は降りていった。雨が上がった向こうにはもう夏の気配がある。良ければ、彼女さえ良いのなら二人でまた雨に濡れることもあるだろう。それまでのさよならだ。そう思って灰色の窓から目を逸らした。僕はかなしみというものが、彼女の色をしていることを知った。