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色彩りキャンバス

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01.いいえ、彼女は涙になっただけなのだと、あの人は言う。




教団の図書室には、オールドラントの歴史を記したものの他に、世界史に規律、音素の成り立ちに、ダアトに関する多数の資料に、譜石の解明できない謎や預言を信仰するための世界の法則を記したものがたくさんあった。これらのどれもが、イオンには意味のないものに見えた。不思議だった。
その中に、不似合いな本があった。この図書室にあるほとんどのものが埃を被っているけれど、それも同じで。だけどそれは、絵本だった。
水彩で描かれた淡い表紙に、ぼろぼろになった紙。文字も水でも零したのか滲んで読めなくて、それでもイオンは大切に腕の中に抱えて、図書室を出た。たからものを見つけた気分だった。
私室に帰る通路で見知った金髪を見つけた。彼は珍しいことに迷子で(でもこの教団内は広すぎる。なにが嬉しくてこんなに通路を作ったのか解りかねる)、イオンは笑顔で彼を礼拝堂前まで送った。
その時にちょうど、イオンが腕の中に抱えている絵本に彼が気づいた。懐かしいな、と彼は柔らかい眼差しを絵本に向ける。イオンは、これを知っているのですかと訊いた。
ルークも知ってるぞ、と彼は穏やかに微笑む。あいつは絵本とか図鑑とか、大好きだったから。
イオンは淡い絵本の表紙を見た。人間だけど、腰から下のほうは魚のひれと尾が描かれている。イオンは、これはなんですか、と訊く。生きてきた今まで絵本なんてものをイオンは知らなかった。見てきたのは、小難しい書類や世界史、ユリア・ジュエに関する本。こんなきらきらとした絵を見たのは、初めてだった。
彼は余計なことを言わずに、人魚という生き物だよ、と教えてくれた。架空の生き物で、海の中を自由に泳げて、色とりどりの尾びれをもって、自由に生きているということ。
だけど、彼女らは海の中でしか生きられない。呼吸ができるのは、海の中だけ。
イオンは淡い表紙の絵を見つめた。それから、彼を見上げる。「ガイは、物語を覚えて?」
彼は苦笑した。ああ、覚えてるよ。
眩しく光る金の髪を少し揺らして、覚えてるよ、ともう一度、だけど声は低く、応えた。イオンは僅かなその変化に、思わず口を閉じた。そしてすぐに、ルークも覚えてるでしょうか、と笑った。彼は、どうだろうなぁ、と遠くを見るように言う。賭けのことは、忘れてたけどな。それは独り言。
イオンは小さく頷く。絵本をもう一度腕の中に抱えて、じゃあルークに会えたら訊いてみますね、と言って彼と別れた。


同じように私室に戻る道の途中で、見知った朱色の髪を見つけた。
彼は、例に漏れず迷子で(いつまでたっても覚えられない、と彼は愚痴を零した)、イオンは笑顔で、礼拝堂まで送ろうとして、彼が止めた。
イオンに会いに来たんだ。彼は、そう言った。
イオンは少し驚いて、それから微笑んだ。そうして腕の中の絵本を思い出して、彼に差し出した。
あ、と彼が声を出した。「これ知ってる、なんでイオンが?」
イオンはなぜか嬉しくなって、覚えてるんですねルーク、と声が弾んだ。彼はそれに驚いたように、どもりながら答えた。
だってガイがよく読んでくれた本だし。ていうかオレがせがんだんだっけか。よく覚えてねぇけど、うん、覚えてるよ。
彼は、混乱しながら記憶を辿ったらしかった。イオンはますます嬉しくなって、笑う。
文字が雨か、水でも零して滲んで読めないから、物語を教えてほしいと頼むと、彼は淋しそうに絵本に視線を落してから、淡く微笑んで頷いた。
記憶を、思い出を辿るように、彼は目を閉じる。そして、語った。

人間に恋して、人間になって、恋がかなわなくて、愛した人を殺せず、海に溺れて泡になった人魚姫の話を。


作品名:色彩りキャンバス 作家名:水乃