買い物上手
窓の外は大荒れだった。窓に激しく身を打ち付ける雨は戦場に散る兵士を僕に連想させる。
「ちょっと知識のある人間が、その知識を無学な人へ商品として売り出す。私達は無学だから、それがとてもありがたいものに見えて買ってしまうのね。世の中は全部それで成り立ってる。ギブアンドテイクってやつかしら? ううん、ちょっと違うな。なんて言えばいいの?」
「さぁ……僕にはわからない」
「あなた、そればっかり」
彼女が唇を尖らせる。グロスで艶めいた唇は僕の妄想を一瞬掻きたてたけれども、すぐにしぼんでいった。実のところ、僕は化粧をしていない彼女の顔が好きだった。化粧から漂う独特の香りが僕はどうにも駄目だったのだ。それでも彼女は化粧をやめない。曰く、女の中で生きて行くためには化粧が不可欠だという。不思議だ。化粧というのは自分を飾る行為で、それは具体的に言うと異性に自分を良く見せるための行為だと思っていたのに。
「ねえ、あなたはどう思う?」
「何の話だっけ」
「世の中はうまくできてるって話」
「ああ、そうだった」
僕は彼女に言われてようやく、さっきまでの会話が頭の中に入り込んでくるような気がした。僕はいつも半分ぐらいしか彼女の話を聞いていない。半分ぐらいで、なんとなくわかるからだ。だからスペースの余った残り半分を、僕は彼女を眺めることに使う。彼女の形のよい爪が携帯電話のボタンをいじったり、髪を触ったり、服の裾をいじったりするのを目で追う。それから、家に上がるとすぐに裸足になってしまい、さらけ出された足の指を眺めたりする。僕の家で彼女はとても無防備だった。
「うまくできているなら、それでいいじゃないか。世の中がうまくいっていることほど幸せなことなんてないんだからさ」
「面白くないこと言うのね」
「じゃあ荒れている方が面白い? 今日の雨みたいに」
「そういうことじゃないけど」
「テロとか戦争とか、そういうことを君は望んでるの?」
「そんなの毎日出てくる殺人事件と変わらないわよ。今朝もニュースで見たわ。母親が自分の赤ちゃんを殺したニュースよ。見た?」
「いや、見てないな」
「ニュースは見ておかないと、置いてけぼりになっちゃうわよ。たとえそれが偏った報道でもね。あなた、今そういうふうに反論しようとしたでしょ? 何も知らないよりずっとましなんだから。良平のお馬鹿さん」
それは彼女が僕によく言う、決め台詞みたいなものだった。僕はどこかのクマのぬいぐるみよろしく、お馬鹿さん、と彼女に笑われる。彼女がそれで楽しいなら僕もそれでよかった。別に、僕は彼女にどう言われたって構わなかった。僕は彼女とのこうしたやり取りを楽しんでさえいた。僕は彼女のことが好きだから。
「何だかまた話が逸れちゃった気がする」
「君との話はいつも寄り道ばかりだよ。本当の道なんてないんじゃないかな」
「それじゃいつまでたってもゴールに行けないじゃない」
「どこにも行けないよ。今日はひどい雨だし」
僕がそういうと、彼女はくるりと顔を窓に向けた。その拍子に肩から長い髪がすべり落ちて、白い首が隠れてしまう。僕は彼女の体が作り出したカーテンの奥に、彼女の熱を持った体があるのだと思うと、全てが愛しくなってくる。
「いつ止むのかしら」
「そのうち晴れるよ」
「だから、それっていつなの?」
「僕にはわからないよ。僕はただの人間だから」
「そうよね……」
彼女は本当に残念そうな顔をして、髪を肩の後ろへやった。そして手首につけたままにしていた髪ゴムを口に咥え、長い髪の毛を纏め始める。僕はそれをじっとみていた。まるで、電車も停まった夜中に、裏路地で見つけた地下のバーへ迷い込んだみたいだった。胡散臭さと妖艶さを混ぜこぜにしたようなバーの真ん中で、彼女はその体を惜しげもなく晒しているダンサーのようだった。観客は僕一人だけ。店主もいない。この部屋には二人しかいないから。
「あなたって私の見た目が本当に好きよね」
「内面もね」
「丸々愛されてるって素敵。でもあなた、いつか私のこと嫌いになっちゃうんだから」
「そうかな? 信じられない」
「絶対そうよ。男っていつもそうなんだから」
いつも、と言えるほど、彼女は実際に男と付き合っていた。僕と付き合い始めた頃、僕でちょうど十人目だと彼女が言っていた。
「どんなにベストセラーの小説だって、便利なキッチンだって、いつか皆新しいものに目が移っちゃうの。人間ってそういうものなの。そうしないと社会が回っていかないもの」
「僕は物持ちもいい方だし、君に限ってそんなことしないと思うけど」
「わかってないな、良平は。私たちはこの世の中に生きている以上、その一部として役目を果たさなくちゃいけないのよ」
彼女のいわんとすることはなんとなく理解できたけれど、それが事実だとして、僕にとってはとても遠い未来の話に思えた。その瞬間は、もしかしたら彼女が老いておばあさんになって、息を引き取る一日前に来るかもしれない。そんな可能性だって捨てきれない。彼女の十一人目の男が、彼女の死ぬ間際に現れることは、決してありえない話ではない。
「僕は君のこと、好きなんだけどな」
率直な意見を述べると、髪をまとめ終わった彼女は、うなじに後れ毛を少し垂らした姿で微笑んだ。
「私も好き。だけど、私はかしこい生き物だから駄目ね」