気づいたら穴に落ちていたようなそうでないようなそんな話
ポツリと呟いた。
あ……あ……あ……
ほんのかすかな呟きだったはずなのに、この口からもれ出た音は周囲をひたすら飛び回って反響する。そこでようやく自分がどうも暗くて狭い何処かにいることに気がついた。暗すぎて何も見えない。自分の体さえ。
記憶をたどっても自分がなんでこんなところにいるのかよくわからない。
もう少し時間をかけて記憶をなぞろうとしていく内に、そもそも自分が何者で、どんな姿形をしていたのかさえわからない事に気づいた。
今自身のことでわかるのは、自分が人間である事と何故か今はこの暗くて狭い何処かにいるということくらいだ。なんとなく自分が犬でも猫でもなく人間であると確信できたことに安堵を覚える。
「学校はまだ行かなくていいのかな?」
行かなくていいのかな……いいのかな……かな
取り敢えず声は出せるらしいので試しに思ったことを呟いてみる。すると『学校』なんて単語が口から飛び出してきた。
長いわけではないがそんなに短いわけでもない時間を思考に費やして、どうも自分は学生と言うものらしいということに思い至った。しかし、更にほんの少し考えてみると教師である可能性もあるはずだと気がついた。それでも多分自分は学生なのだろうとそんな気はした。
「なら問題は、小学生か、中学生か、高校生か、大学生か、と言う事だろうか?」
と言う事だろうか……事だろうか……ろうか……
反響した音に耳を澄ませつつ再びじっくり考えてみた。よくわからなかった。
「……」
………………
なんとなく黙っているとここは酷く静かだ。
けれど他に自分はいったい何を考えるべきなのか、どうにも思いつかなくて、それでどうしても声を発せずにいた。
「……美術で使う筆の先で顔をふさふさしたい……」
ふさふさしたい……したい……たい……
ふと頭によぎった言葉を呟いてみた。けれどなんだかどうにも間違ったことを言っている気がする。
「……白い大型犬に抱きついてモフモフしたい……」
モフモフしたい……したい……たい……
これも少し違う気がする。
「……熱い緑茶をお菓子を摘みながら飲みたい……」
みながら飲みたい……飲みたい……たい……
これも違う。
「……暑い夏にプールに飛び込んで泳ぎたい……」
ぎたい……たい……
違う。
「……熱めの風呂に浸かって長湯したい……」
したい……たい……
違う。
なんだか離れていってるようなそうでないような。
「……」
………………
…………
……
「あ、そうか」
あ、そうか……あ、そうか……あ、そうか……
ようやく脳裏にこれに違いない、と思える言葉が浮かんできた。
「朝、寝起きにベッドでゴロゴロしてたい」
ピピピピ、ピピピピ
目覚ましがうるさい……。寝ぼけた頭であと五分と二時間くらい……なんて事を考えていたら無理やりに我が憩いの掛け布団が強制的にばっさりと取り払われた。
「むぅ~」
「お姉ちゃん、いい加減おきなってばぁ」
我が妹は私に似ずに随分としっかり者になったなぁ、などと素朴な感動を胸に私は往生際悪く枕を抱いてベッドの上をゴロゴロ転がる。
「ほらぁ、今日は水泳だって昨日の夜張り切ってたじゃん!」
ゴロゴロ
「お姉ちゃん!!」
「う~、そりゃ今日みたいな真夏日は冷たいプールに限るけど……やっぱり朝のベッドの上が一番なんにゃよね~」
「はぁ、そういうダメ人間みたいな発言やめてよね」
「ふにゃ、起きるよ~、わかったよ~」
仕方なく私はムクリと上半身を起こす。ふらりふらりと揺れる体を何とか操縦して、ようやく二足歩行を成功させる。
「朝ごはんできてるから早く着替えて起きてきてね」
妹が一階の居間へ階段を降りていく音が聞こえる。一段一段降りていくリズミカルなようなそうでないような音を耳にしていると、ようやく意識がはっきりする。
学校の指定のセーラー服に着替える。
「そういえば……なんか夢を見てたような……」
まぁいっか。
こうして今日も一日が始まった。
作品名:気づいたら穴に落ちていたようなそうでないようなそんな話 作家名:狗 真永