夜は煙のごとく消え
空き机に紙を広げて、リレーつばめは資料配布の準備をしていた。アシスタントにやってもらえばいい作業なのだが、こういう単純作業をしながらだと考え事が進む気がするので、時間が許す限りは自分でやることにしている。優秀なアシスタントに見つかれば瞬く間に取り上げられてしまうから、彼女のいない隙を見計らってはじめるのがコツだ。
博多ベースで考えると列車がやたらに偏るので、博多以外の終点でグループ分けした配布先、熊本の数を数えるところで手が止まった。熊本ベースは自分と有明と。いつもの数ではいけない、今月はひとつ少なくていいのだ。しかし、いつもの数を刷ってしまった。月半ばのダイヤ改正で二列車減った情報が脳内で更新しきれていない。
熊本のはやぶさ、大分の富士。
東京行きの夜行列車はなくなってしまった。
いまいる部屋にも、はやぶさの机があったのに。視線を上げた先の机は、何事もなかったかのようにまったいらだ。この間まで、九州から東京までの名産品の空箱が山を成していたのに、いまはもう彼の気配すらない。机もロッカーも宿舎も、彼らのいた痕跡は跡形もなくなって、最初からいなかったみたいに白紙に戻ってしまった。
――廃止されれば、気配も残さず消えるだけ。
いかに名門であろうと、いかに実績があろうと、世情に合致しない列車を走らせることはできない。代替交通機関がないとか、公共の福祉とか、考慮する点はあるけれど、夜行列車に関しては、そう(・・)ではなかった。
そうではないといくら説明されたところで、証明したところで、納得のいくはずのない結論であったけれど。
「廃止は誰のせいでもない。日本が小さくなっちまったんだから」
その会話を交わしたのはいつだったか、廃止が公表されてカウントダウンがはじまってからだったか。
血管の浮いた太い指にマグカップを挟んで、はやぶさは言った。
緑茶を並々と入れたマグカップは大きいが、男の手に収まれば丁度よいサイズに見えた。夜を走る列車には見えない、日焼けしたような肌には皺がより、年を経た男の渋さがある。
「博多から東京まで、新幹線なら五時間、飛行機なら二時間。俺に乗ったら一六時間だ。ここまで走らせてもらえたのは随分幸運だったよ」
リレーつばめは首を振った。かけるべき言葉を彼はもたなかった。いや、いくらでもありはするのだ。彼の、よく躾られた優秀な脳には、全体の利益を追求するための判断力と、それを遂行するために必要なものが納められている。その中には『気の利いた慰め』も入っているはずだった。つばめ相手のときといい、いまといい、ロクに役に立ちはしないスキルだが。
リレーつばめの神妙さを吹き飛ばすかのように、はやぶさは声をたてて笑い、先に廃止された同僚たちの名を挙げた。
「実を言うと、富士も俺も、結構楽しみにしてんだ。あっちにはさくらもあかつきもなはも、みんないるからな。第一、にちりんに東海道新幹線の情報を教える任務からも解放される」
あっち――あちら。廃止された列車の住む、ここではないどこか。
そこへ行く鍵をリレーつばめは持たない。営業中の列車には関わりのない、関わるべきではない場所だから。名を奪ってそこへ連れて行くのも、新しい名を与えてそこから連れ出すのも、どちらも彼ら自身の手によってではないから。
リレーつばめの関わることの出来る範囲といえば、廃止するかどうか――名を奪うかどうか検討する延々と続く会議だけだ。
この何年かで、たくさんの夜行列車を廃止した。はやぶさが名の挙げた列車の廃止には、すべて彼も関わった。特急の王として、あるいは、未だ幼い王の廷臣として。
「みなさん、お元気でしょうか」
「元気だろうよ。便りのないのは元気な証拠って言うし。――なぁ」
はやぶさはリレーつばめに呼びかけた。嗄れた声は抵抗を許さない響きがあり、年下の上司の落ちた首を、傍らに向かい上げさせる。
「いいか、お前のせいじゃない。それだけを覚えておけ」
男の眼光が真正面からリレーつばめを射る。鋭い視線は力強く、彼の名の元となった鳥を喚起させる。
「いつか俺がそっちに行ったら、また言ってください」
鋭利な眼光にさらされながら、リレーつばめは答えた。不安げな響きだと、口にした端から思う。
「お前は来ねえよ」
言い切って、はやぶさは目を伏せた。制服のポケットを探り、煙草を取り出す。同時に取り出した百円ライターがセブンスターに火を点けた。
だいたいな、と言い聞かせる声音で言う。
「禁煙主義のつばめなんか来たら、思いきり煙草も吸えなくて面倒くせえ」
男は嘯(うそぶ)き、煙を吐き出した。笑い皺の寄った口元から生まれた煙は長い尾を引き、休憩室の換気扇に吸い込まれて消えた。跡形もなく、まるで煙なんかなかったみたいに。
そしてはやぶさはいなくなった。彼の相棒と共に。
リレーつばめは嘆息し、書類をまた数えはじめた。
いつか彼もいなくなる。そうしたら、この書類は誰が数えるのだろう。つばめか、それとも、新たに生まれるであろう山陽直通新幹線か。
答えを知ることはないだろうと、リレーつばめはすでに覚悟していた。幼い王がまったき姿になれば、彼は不要になる。その廃止書類には、迷わず判子を押すつもりだった。かつて誰を廃止したときよりも躊躇わずに押すことができるだろう。そしたら後は消えるだけだ。あの日の煙のように、跡形もなく。