「しあわせをひとつ」
帰る家もそこへと続く道も歩く足もあるのに、ただ立ち尽くして帰れないまま。
こんな気持ちのわたしを知らない神様は、涙のひとつすら恵んでくれないようです。
知らず知らず、夢にですら彼女を見るわたしは、もはや手遅れではあったのです。
しかしわたしはこのまま死ぬわけにはいきませんでした。わたしの生きた証をなにかしらこの無情な世界に刻み付けて、それからやっと天を信じることが許されるのでした。
だから彼女をしあわせにしようと誓いました。
青い空が海に沈むのを見届けて、油切れの機械のような足をぎしぎし鳴らし、また今日も帰り道を行くのです。
これまで繰り返し回してきたドアノブを握りながら、これまた昨日と同じく、ささやかな祈りを捧げました。
重たいドアの向こうにある情景を想像できなかったことがありません。
「おかえり」
曖昧にわたしを捕える視線、横たわる白い肢体、床に映える黒の髪。
実は想像が外れたこともないのでした。
なぜなら、気が触れそうになるほど同じ一日を延々、わたしたちは生きているのですから。
「ただいま」
「今日も浜に行ったの」
「うん」
彼女は一日の大半、こうして床に寝そべっていて、ガラスに隔てられた先の青を見ているのです。
「さみしい」
空が青い時間は彼女といたくないというのが本音です。
彼女の姿はまるでわたしの非力さそのものだったのです。
彼女は飛びたがる人間でした。
「さみしいよ、マヤちゃん」
黙って小さな手を握ってやりました。
「ねえ、ねえ。それなら隙間がないくらいぎゅうってして」
「痛いよ?」
「だって、零れていきそうなんだもん」
「なにが?」
「しあわせとやさしさと愛」
なにも与えられないと思うのです。
飛びたいと望む彼女に差し出す翼もなく。
救えないのを知っているから、彼女から離れて生きようとしました。けれど結局、彼女の体温はわたしのかけがえのないエナジィでした。
彼女と生きたかったのです。どうしても、他の生命体では駄目でした。
差し伸べる手がないことはどれだけの、泣きたい場所がないことはどれだけの、かなしみでしょうか。
一人きりですか。
たった一人きりなのですか。
誰に問うわけでもないことをずっと自分の内から追い出せないまま、また今日が死んでいきます。
ああ、ああ。
きっとここまでだったのです。わたしが黙って見ているなんてことができたのは。
もうことごとく駄目になってしまった部屋。まだ朝日が昇る、それは果たして救いだったかどうかもわかりません。
もう苦しくてしんどくて我慢ならなくなったのでここへ来たのです。
帰る場所もそこへと続く道も歩く足もあったから、迷ったりしませんでした。
まだ空が青いうちに彼女を浜へと連れ出しました。
今日ここで、気味の悪い日常を抜け出そうとして。
「飛びたいなあ」
何度目かも定かでない彼女の口癖を聞きながら、ただ思うのでした。
わたしたちの帰る家にはありとあらゆるものが溢れて、間違いなく楽園だと。
それなのに飛びたいと言うのです。
雲が浮かぶだけの青色に、どんな夢を見たのかも知りえません。
「帰ろうサナ。飛んで、どうしたいの。なにもかも持ってるのに」
待っているのはやかんの悲鳴と満たされた浴槽、温かいだけの湯気にアイロンのどこか懐かしい匂い。
「取り返したかっただけなの」
「……例えば」
「うさぎのぬいぐるみ、お気に入りのリップクリーム、パズルの一ピース、花柄のシャーペン、お母さん」
丁寧にわたしが失ってきたものたちを並べて、泣きそうに笑っていました。
死ぬように青に焦がれて飛びたがった少女は、わたしの為に空へ行きたかったと言うのです。
あれほど苦しんで、泣くこともできず、彼女とわたしはなにも変わらなかったのでした。
「いいこと教えてあげようか」
「なあに」
「ここに失ってないものがある」
たくさんを失って、その分だけ後悔を重ねてきました。
だから黙って彼女を空に行かせるわけにはいかなかったのです。
もしもあの時、なんて、下らないことでした。二度とそんなこと思いたくも言いたくもありません。
「サナ、地上(ここ)では駄目なの? 翼がなくても足があるよ。いつだって帰れるし、おかえりと言ってもらう権利を与えられてる」
わたしを孤独だと言うなら、一緒に生きてそれを塗り替えてみせて。
「あたしは、マヤちゃんになにもしてあげられないのかなあ」
それはわたしに向けられた言葉ではないような気がしました。
「せめて取り返して、しあわせだった頃の景色をマヤちゃんに見せたかった」
飛びたい。
意地悪で無知な神様のところへ行って、わたしは奪われるべき人間じゃないと教えてやると言うのです。
無垢で無知な彼女は知りません。
「しあわせなんだよ」
わたしは報われて、恵まれて、これ以上など想像もつかないことを知りません。
「サナがここに生きてる」
友人だとか恋人だとか、存在に名前なんていらないでしょう。サナはサナ、それだけなのです。
「マヤちゃんはもっと欲張っていいんだよ」
これだけ失って、絶望も繰り返して、それでも望むことがありました。
「サナ、孤独にしないで」
「……マヤちゃんの隣なら歩いてもいいかなあ」
「ね、ここに全部があるよ」
そうしてサナの左胸の下に手を当てました。
布越しにじんわりと熱と鼓動が伝わって、泣きたいような気持ちになるのです。
一生秘密にするつもりの、わたしだけが見た夢の中で青く光る魚が空を飛び、花に埋もれたサナが白い腕を伸ばして笑っていました。わたしはその風景を指で四角を作り、切り取ったことを思い出します。
「生きてるね、マヤちゃん」
「ん、ここにいるよ」
死んでしまわないうちに、たくさん贅沢をしようと思いました。
欲張ってわがままを言って、許されて、生きていこうと思うのです。
ようやく地面に足を着けた彼女とわたしで、手を繋いで帰っていきます。
最後は二人でただいまとおかえりを贈りあって、笑うと決めていました。
わたしと生きて、しあわせになってみせて。
作品名:「しあわせをひとつ」 作家名:こはな