恋
この十数年、僕は彼女への恋心をひた隠しにしてきた。そうするよりない恋だった。ここにいる少女たちに個人的な感情を持つことを、僕らは一切許されていない。それに、彼女は僕より二十も歳下だ。それどころか、出会った頃の彼女はまだほんの子供だった。確か小学校にも上がっていなかったと思う。そんな子供に恋したなんて、誰にも言えるわけがない。それなのに、僕は彼女に恋をした。
初めて会った時、彼女は黙って俯き震えていた。無理もない。これから親元を離れて暮らすことになるのだ。幼い子供にとって、両親から離れるほど恐ろしいことはない。その不安に耐えかねて、赤子のように泣き喚くする子供たちを何人も見てきている。
ところが彼女は泣かなかった。それどころか、青褪めた顔を上げて精一杯笑ってくれたのだ。これには正直驚いた。「これからお世話になるんだからきちんとご挨拶しなさい」とでも言われていたのだろうが、まさかそんな風に笑いかけられるとは思わず、妙にどぎまぎしたのを覚えている。
思えばそれが僕の恋の始まりだったのだろう。あの微笑が、僕の心のどこかを捕まえてしまったのだ。そして決定打は、それから数年後のことだった。
彼女は我慢強い子供だった。彼女を始め、ここに集まった子供たちの境遇は、決して恵まれたものではない。辛いことや苦しいことも少なからずあった。もちろん僕に出来得る限りのことはしてきたつもりだけれど、それが却って辛いことになってしまうこともある。毎日のように泣いたり癇癪を起こす子供がほとんどだ。
ところが、彼女は1度もそんな様子を見せなかった。あんなに我慢強い子を、僕は他に見たことがない。大の男でさえ悲鳴を上げるような苦しさにも、ただ俯いて耐えているのを見た時には、いっそ「泣いてもいいんだよ」と言ってやりたい気分だった。
その時からだ。彼女を苦しみから救いたい。あんな顔をして涙を堪えなくてもいいように、この手で守ってあげたい。そう思うようになったのは。
その想いが自分の仕事への使命感や責任感ではなく、恋心だと気付くまで、それからたいして時間はかからなかった。自分でも信じがたかったが、認めざるを得ない。面倒を見ている子供たち全員に分け隔てなく接するのが僕の仕事だというのに、気が付けば、僕は彼女のばかりを目で追い、彼女のことばかり考えるようになっていたのだから。
そんな日々が長くは続かないことは、最初から覚悟の上だった。彼女はいつまでもここにいるべき人間じゃない。どういう形であるにせよ、やがてはここを出て行く人間だ。
だが僕は、その日はずっと先だと思っていた。少なくともあと数年、もう少し大人になるまで彼女はここにいると思っていたし、もし彼女が望むなら、その後もずっと彼女の傍にいて支え続けるつもりでいた。その結果、ここを離れることになってもだ。
だが、彼女はそれを望んでいなかった。彼女が選んだのは僕ではなかったのだ。彼女は僕ではない男にその身を委ねるために、明日ここを去る。
でも、それが彼女の選んだ道だ。僕がそれに口を差し挟むことはできない。僕にできるのはたったひとつ。彼女の選択を受け入れ、笑顔でここから送り出してやることだけだろう。
僕は用意していた花束を手にして部屋を出る。最後の挨拶をしよう。今頃きっと、不安を堪えて俯いているだろう彼女に。
別れの言葉はもう決めている。「転院先で最新の治療を受けて、今度こそ病気を完治させるんだろう? 頑張れよ!」。そう言って、精一杯励ますんだ。
それが小児科医である僕にできる、最後の治療なのだから。