(18)
弟は好き嫌いをしない。宿題を忘れたこともない。遅刻はもちろんのこと欠席も。成績は常に上位で運動神経も並み以上、そして顔も格好良くて男女問わずモッテモテ。俺が弟と同じなのは、顔くらいのものだった。双子なのだからそれは当り前なのだけれど、でも、ほんとうにそれだけだった。びっくりするほど俺にはなんにも無い。きちんとした性格も良い頭も無い。機敏に動く体も無ければ、かわいい彼女も、ましてや、ひとりの友達すらも。理由はきっと俺の非社交的で根暗な性格にもあると思うのだがもうひとつ、決定的なものがあった。それは俺が中学生以来、学校にはもう、一度も行っていないということだった。
時計の針は夜の九時を指していた。面会の時間もとっくに終わり、病院は墓のように静まり返っている。看護師たちは皆ナースステーションだ。俺が中学三年生のころから押し込められている個室の部屋には、俺しかいない。消灯の時間を迎え、入院着から剥き出た細い白い腕だけが暗闇にぼうと浮かび上がっている。いつもの光景だった。そうやってぼんやりとしていると、がらがらと窓が開き白いカーテンを押しのけ、ベッドとちいさい棚以外なんにも置かれていない床にすとんと誰かが降り立った。俺は特に驚かない。いつものことだからだ。消灯から五分が経過すると、俺の病室には必ず、そう必ず。俺が入院し始めた頃からずっと、その時間帯になると窓から弟が現れるのだ。
「おはよう兄さん、今日も元気じゃない?」
「ああ、元気じゃないよ」
「ちゃんとご飯は残してる?点滴は抜いてる?医者なんかの言うことは聞いてない?ああそうだ、ねえ今日の薬は?飲んでないよね?さあ、出して」
弟に言われるままに、俺は差し出された弟の広いてのひらに看護婦に渡された数種類の錠剤や粉薬をばらばらと落とすように大雑把に渡した。弟はそれを器用にすべて受け取ると、ぐしゃりと握り潰しながら肩から下げていたショルダーバッグにしまい込む。あとで家に帰ってからいつものように燃やすのだろう。俺はそれをぼんやりと眺めながら思った。弟は機嫌よさそうに、うつむき気味の俺の頭をよしよしと撫でている。
「えらいね兄さん、ちゃんと僕の言いつけを守って。このまま兄さんは、ずっと病気を治しちゃだめだよ。ずっとずっと病院に居るんだよ。ここでずっと守られて、ここでずっと僕だけの兄さんでいてね。僕が傍にいれば兄さん、外の世界になんか出る必要なんてないよね。僕さえいれば兄さんには友達も恋人もいらないよね。兄さんに会いに来るのは僕だけだ。僕だけが兄さんの世界だよ。兄さんは僕だけを信じて僕の言うことだけを聞いていてね、ぜったいだよ」
俺と同じ顔が、俺のことをぎゅっと抱きしめてやさしげな表情を浮かべている。俺はたぶん無表情だろう。弟が饒舌で表情豊かだから、俺には感情を作り出す必要が無い。
「兄さん、今体調はどんな感じ?」
「ああ、吐き気でいっぱいだ。頭も痛いし、腹もやばいよ。裂けそうに痛む」
「そっか。いい子だね兄さんは。ほんとうにいい子だね。兄さんは僕に守られるべきだって、やっぱりちゃんとわかってる。安心したよ。じゃあ僕はそろそろ帰るね。また来るよ。明日もご飯はぜんぶ食べちゃだめだよ。死なない程度にね、がんばって」
弟はそう言って俺の冷たくてこけた頬にやわらかい唇をそっと寄せて口づけるとそのまままた窓枠に足をかけて、ひらひらと手を振って飛び降りて帰って行った。ここは三階だ。帰って行くたび、毎度毎度よくやるよと俺は思う。それほどまでに弟は俺に病気を治してこの病院から出ていってほしく無いらしい。弟が兄を独占したがるなんて、たぶんよくある話だろう。だけど、こんなたぐいの話は俺たち双子だけの話でじゅうぶんだ。俺が弟の言うことを素直に聞いて病気を治さないまま何年もこんなところにいるのは、そのためだ。弟みたいな人間の狂気を、俺以外の人間に向けさせないための、俺は生贄、供物、人身御供。ああなんとでも言える。
「いい子、か」