悪
「ほら、小野恭一でしょう。さあ、もう埋めますよ。帰りましょう。肌寒くなってきました」
そう言って彼は私の返事を聞く前にまた土を被せ始めた。私は彼の暗い黒色の瞳をぼんやりと見つめながら、私の好きなからすに似た彼がもはや死肉でしかない小野さんの体を啄ばんでいるところを想像して、笑った。
「何を笑っているんです」
「ねえ、キミ小野さんのこと食べなくていいの?」
彼はそのときはじめて表情を崩し、眉の間を怪訝そうにゆがめて私を見た。そして私たちは東京に帰った。
それきり彼は私の元へは現れなかった。彼は一度として私を守らなかった。程なくして、東京を拠点に活動している麻薬密売組織の幹部が麻薬取締法違反と殺人罪で起訴され逮捕された。麻薬の方は言わずもがなであるが、殺人の方の被害者は小野さんだった。売人をしていた小野さんとその幹部との間で何かしらのいざこざがあったことが原因で小野さんは死んだらしいのだがそんなことはどうでもいい。合点がいった。あの日現れた彼は、小野さんを殺していない。彼はおそらく目撃しただけだ。小野さんが殺されるところをたまたま目撃し、そのまま山中に遺棄される小野さんを彼はただ見ていただけだ。彼がどういう立場の人間かまではさすがに推測できないが、とにかく彼は見ていただけだろう。そして私のところへやってきた。小野さんを殺したふりをしてやってきた。しかしそれは何故だろう。そこだけが解せない。小野さんは東京の一部では有名だった。恋人である私もそれなりには顔が知られている。だから私のところへあんなことを言いに来た帰結はわかるが理由がわからない。彼は何がしたかったのだろうか。私に愛を語りかけていったい何がしたかったのだろうか。
死体を目撃しているのに通報しなかった点や生前の小野さんの麻薬所持を黙認していた点では私も犯罪の泥に片足を突っ込んでしまっている。警察が私と小野さんの暮らしていたマンションにまで介入するのも時間の問題であろうと思い私は髪の毛を黒色に染めすくない荷物を持っている中でいちばん大きな鞄にすべて詰めるとそのままマンションを出ておとなしく実家へと帰った。あれから鏡で黒髪の自分を見るたび、私は彼のことを思い出す。死肉の上に乗っかって、私に愛をささやいたあの悪い彼のことを。私はどうやら悪い生き物をうつくしいと思ってしまうらしい。それならきっと私、優秀な刑事にでもなれそうね、なんて思いながら、田舎の空気の中私はひとりでからりと笑った。