赤い手
赤い手が見えるのだと少年がいい出したのは、通院をはじめて1か月がたった頃だった。
急にふさぎこみ、ろくに口も開かなくなったかと思えば、理由もなく癇癪を起こすようになってしまった息子を心配した両親が、わたしの病院へ連れてきた。
はじめて顔をあわせたときは、ひどく怯えているような印象をおぼえた。小野寺千尋というその少年のカルテには、わたしの字で“精神疾患”と記されている。“不安神経症”とも。パニック障害、パニック症候群とも呼ばれ、一般的には女性に多く見られる症例だが、青、壮年期の男性にも決して珍しくはない。
とはいえ、単純に病名を決めてしまうのには抵抗があった。不安神経症は、襲ってくる不安材料が実際には明確でないことがほとんどだが、彼の場合は、なにかはっきりとした要因があるように思えたのだ。
両親と相談したうえで、わたしは小野寺千尋の催眠治療に踏み切った。無意識下で彼が語ったのは、顔の見えない男に突然襲われる恐怖だった。障害が起こるほど烈しい強迫観念が芽生えたきっかけについては聞き出せなかったが、時間をかけて恐怖を取り除いていくことには成功した。
きみはなにも悪いことをしていないのだから、怯える必要はない。勇気を出して、その悪い男をやっつけてしまおう。それは決して悪いことではなく、むしろよいことなのだから。粘り強くそういい聞かせることで、小野寺千尋は徐々に落ち着きを取り戻していった。発作めいた癇癪を起こすことがすくなくなり、15歳の少年らしい笑顔を見せることもあった。
完治して通院が不必要になる日もちかいだろうと安心していたのだが、最近になって、こんどは赤い手の幻に苦しむようになったという。
毎晩悪夢にうなされ、意識のあるときでも、赤く染まった両手が目の前をちらつくようで、よくなりかけていた小野寺千尋の神経は磨耗していった。影をひそめていた発作が再びあらわれるようになり、両親は慌てて彼を病院に連れてきた。
小野寺千尋の家庭はごく平凡なもので、両親も、過保護というわけではなかった。しかし、近頃この地域では若い男性が刺されるという事件が連続して起こっており、犯人は捕まっていない。3人の被害者のうちのひとりは発見が早く命をとりとめていたが、いまだ意識がもどっておらず、周辺の住宅は不安に包まれていた。小野寺千尋の両親は、息子もその通り魔に襲われたのではないかと心配しているのだった。
ともかく、面談してみないことにははじまらない。午前中の会議を終えると、昼食もとらずに、小野寺千尋の待つ院長室へともどった。
「やあ、千尋くん」
「こんにちは」
どこか緊張した表情で椅子にかけていた小野寺千尋が、小さな頭を下げる。色が白く、華奢で、女の子に間違われそうな端整な顔だちではあるが、とくべつな部分はなにもない、どこにでもいるようなふつうの少年だ。
「久し振りだね」
「はい」
「学校へは、行っている?」
「はい」
「それはよかった。そろそろ試験かな」
「中間試験と、模擬試験があります」
「懐かしいなあ。終わるまで、憂鬱なんだよな」
「先生もそうだったんですか?」
「うん。勉強は大嫌いだったな」
親御さんには内緒だとふざけてみせると、小野寺千尋はすこしリラックスした様子で微笑した。
「さて、そろそろ、いいかな」
しばらく雑談に時間をたやし、頃合いを見て、本題に入る。一定間隔を置いて繰り返されている治療で互いに慣れていることもあり、スムーズに催眠治療に移行することができた。
「目を閉じて。脚を伸ばして。ゆっくりね。そう……」
わたしの声に導かれて、小野寺千尋は徐々に体の力を抜いていく。ゆったりとしたソファに背中を埋めて、眠ったように動かない。彼の様子に注意しながら、わたしはデジタルビデオのスイッチを入れた。
やや肥満気味の小野寺千尋の母親は、落ち着かない様子で待っていた。わたしの姿を認めると、即座に腰を浮かせた。
「いかがでしたでしょうか、先生、うちの子は」
笑顔でいるときはいかにもひとがよさそうに見えるだろう母親の青褪めた顔を見下ろしながら、わたしは内心途方に暮れていた。ようやく口を開いた。
「だいじょうぶ。確実にいい方向に向かっていますよ」
「ほんとうですか?」
「治療の成果は出ています。あとは、本人の気持ち次第ですね」
心配そうな母親と、治療を終えて寝ぼけたような小野寺千尋を帰してしまうと、わたしはひとり、院長室に籠もった。ひとがいないのを確認して、ビデオを再生する。
小型画面のなか、小野寺千尋は両手足を投げ出して目を瞑っている。その傍らに座ったわたしが、催眠状態の小野寺千尋に話しかける。
「赤い手が見えるんだね」
「はい……」
「きみを襲おうとしている?」
「いいえ、そんなことは……」
小野寺千尋は小さく首を振った。目は閉じたままである。
「だって、ぼくはなにも悪いことはしてない……」
「もちろん、そうだよ」
「ぼくはなにも悪くない……悪いのはぼくにひどいことするような男なんだから……勇気を出して、やっつけなきゃ……」
背すじが震えるような悪寒をおぼえた。もしかするとわたしは、取り返しのつかないミスを犯してしまったのかもしれない。
ビデオの液晶画面のなかで、小野寺千尋の生白い両手が宙をさまよった。
おわり。